2022/2/28 8:11

初代ヒートの意外な正体!藤原に新日本を辞めさせた一言!藤波、藤原、越中、田中稔、保永、田中ケロ復活!それぞれの新日本メモリー!

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3・1日本武道館大会に、OB6人が大集結!


 古い話で恐縮だが、新日本プロレスに『ダッシュ35』という計画があった。創立30周年を迎えた2002年の、まさにその記念パーティ(10月13日)中に明かされたもので、同35周年を迎える2007年までに地上5階建ての自社ビル『G1 PLAZA』を建設するという青写真。背景には株式上場の企図があったのだが、肝心の上場先自体が営業停止になったことで暗礁に。以降も総合格闘技ブームの後塵を拝し、主力選手の相次ぐ離脱もあり、2005年11月には、遂に株式会社ユークスの子会社に。2012年からは株式会社ブシロードの配下となっているのは周知の通り。だが前掲の2企業は、新日本プロレス自体を大きく形態変更させることはなかった。ブシロードに至っては広報戦略含め、アグレッシブな試みを次々と展開。新日本プロレス復興となされたのも記憶に新しい。2005年、企業として悪銭苦闘する中、後述する田中秀和リングアナ(現芸名:田中ケロ)は、ある人にこう言われたという。「今の時点では、新日本プロレスは優良企業ではないかも知れない。だけど、有名企業であることに、変わりはない」

 その新日本プロレスの創立50周年を記念する特別興行『CSテレ朝チャンネル Presents 旗揚げ記念日』がいよいよ3月1日、日本武道館で開催。今週、こちらに関して動きがあった。2月21日、全カードが発表。その中に、かつて同リングで活躍したOBたち、6人の名前があったのだ。既報通り、藤波辰爾、藤原喜明はメインで棚橋、オカダを含む6人タッグに登場。越中はかつてのユニット、G.B.Hのメンバーとともに10人タッグを闘い、田中稔は13年ぶりに新日本プロレスのリングに復帰。保永昇男はレフェリーとして1試合を裁き、前出の田中ケロは、オープニングの記念セレモニーでリングアナウンサーを務めることになっている。

 今回の当欄はこれを祝し、6人の新日本でのメモリーを、秘話を交えてお送りしたい。

「凄くショックだった」藤波の無念。


 1972年1月13日に会社登記された新日本プロレス。当時、4人しかいなかった所属レスラー、つまりは文字通りの生え抜きの1人が藤波だ(他に猪木、山本小鉄、木戸修)。前年暮れに猪木が前所属団体の日本プロレスを追放処分になり、猪木を慕っての合流だった。藤波には何度かインタビューなり取材なりしている筆者だが、新日本での思い出というと、先ずここに力点を置くことが多い。つまり、合流の際、当然、それまで所属していた日本プロレスを去らねばならず、方法は、合宿所からの夜逃げしかなかった。猪木が新日本設立のために用意していた新事務所は、そこから300mほどの位置だったのだが、「“もし見つかったら”と、あれほどビクビクしたことはなかった」と藤波は語る。よほど胸に銘記されているのか、これを語る時、必ず臨場感が増すのである。その後、1980年代には何度か選手の大量離脱に見舞われた新日本だが、藤波は動かず。1993年12月15日、天龍源一郎と一騎打ちする際、実況が「ミスター新日本プロレス!」と紹介した時は、余談ながら、筆者も我が意を得た気分だった(※後に発売されたビデオ版での実況より)。

 その藤波に、インタビューの進行上、こう振った時のことだ。「2005年には、その新日本も身売り……」「凄くショックだった!」筆者が言い終わらず、ましてや感想を伺う前の、即答だった。藤波自身、インタビューで自分を押し出すタイプではないが、生え抜きで支えてきたという極めて強い自負を、そこに感じた。50周年のメインのリングに立つことを、心から嬉しく思う。

 藤原は1972年11月2日に新日本プロレス入りすると、10日後の11月12日にデビュー。おそらく新日本では最短のデビュー記録だろう。実力者ながら前座戦線に甘んじ、1984年2月3日、人気者の長州力を入場時に襲撃。“テロリスト”“問答無用の仕事人”として、一躍認知を得たのは人口に膾炙するところだが、その藤原は1985年、第一次UWFから新日本に出戻り、1988年には再び新日本の選手として契約したものの、1989年、新日本を退社。第二次UWFに合流した。これについて、第二次UWFから引き抜かれたという見方もあるが、本人が言うには大分違うようだ。1989年1月の契約更改の際、テレビ局側から出向していた査定担当Nに、こう言われたのだという。「あなたは負けてばっかりだから、ギャラはこの程度で良いでしょう。藤波さんを見てみなよ。負けないじゃないの」。Nについては良い評判は、少なくともプロレス側からは聞かないし、この時も、「もう少し、プロレス全体を見た方が良くないですか?」と進言する関係者もいたようだが、馬の耳に念仏。藤原は「その場で契約書を破ってやった」という。「バカバカしくてやってられない。前田(日明)のところに電話かけたら、『ぜひ来てください』と言ってくれたし、そっちに行くわ」と、時の関係者に別れの挨拶をしている。その後も新日本には上がったが、あくまで自団体かつプロモーションの、『藤原組』の選手として。そんな藤原のモットーは、「他人に認められるより、俺は俺自身に認められたい」。まさに問答無用の仕事人。当日は鈴木みのる、ザック・セイバーJr.とトリオを組む藤原だが、こちらは新日本カムバックというよりも、むしろ直弟子や希代の業師を上回る、マット界全体の荒波を生き抜いて来た孤高の凄みに期待したい。

越中が語った、真壁への感謝。


 越中詩郎は1985年、新日本プロレス入りも、そもそもは知られるように全日本育ち。2007年、越中が主役の書籍にも参画させて頂いた筆者だが、その時、初めて知ったが、実はこの出自により、随分と嫌な思いもしたようだ。つまりは、仲間外れの類。一例を挙げると、初めて新日本のリング上から客に挨拶したのが同年8月1日(両国国技館)。そこに、新日本生え抜きのドン荒川が登場し、握手を求めるのだが、越中がその手を握ろうとすると、手を引いてサッサとリングを降りてしまった。荒川自身、こういうアイロニカルな部分はあるので驚きもないが、越中は赤っ恥と孤独を同時に味わうことに。翌年、UWF勢がリングに上がるようになると、その蹴撃に倒れる越中に、「全日本育ちだから……」も陰口もあったという。

 凄いのがここから一念発起した越中が、蹴撃を耐え抜き、挙句は高田延彦との抗争をマット史に残る名勝負にしたこと。その後は、その主張に共鳴した仲間たちと反選手会同盟(後に平成維震軍)を結成し、また、今回のG.B.Hでも副将として活躍。今年50周年を迎えた新日本と全日本、互いに移籍した日本人選手は多いが、振り返れば最も移籍が成功した選手になったと言っていいのではないか。

 さて、印象的な言葉がある。「平成維震軍時代は、若い(齋藤)彰俊や小原(道由)が、G.B.Hの時は、同じく若い真壁、矢野が頑張ってくれて、随分助かったもんだよ」。上の人間として、偽らざる気持ちだったろう。特に越中のいたG.B.H期の2007年、真壁は飛躍的な成長を遂げている。当日はこのG.B.Hの孤塁を守る、真壁の躍動にも期待したい。

 田中稔は1999年4月に新日本に初参戦。当時、長州力が、「田中はいいな、ウン」と言うのを囲み取材で1回、聞いたことがあるのだが、筆者はなぜか、特にその時、新日本に上がっていたわけでもない田中将斗のことだと勘違いしたのが懐かしい。単純に、(確かにスタイル的に長州さん好みだよな)と思ったし、田中稔はUWF系の藤原組出身。長州の好まないタイプだと思ったのだが、その田中稔、2001年1月には、長州も要職を続けていた新日本に正式入団。一流は一流を知るということか。

 因みに田中稔自体は、父親が『ワールドプロレスリング』を観ていた分、新日本ファンではあるのだが、よくよく聞くと、初代タイガーマスクファンであり、ひいては、そこからのUWF系入りに。とはいえ、新日本が遠因のプロレス入りは間違いのないところ。特筆すべきは、オカダに「(子供の時)ファンだったり、好きだったレスラーは?」と聞くと、「ジュニスタ」と答えること。ジュニア・スターズ、つまり金本浩二、田中稔のことであり、今回、リング上での接触はないが、現在のオカダを形作った一人と考えると、ある種の感慨も湧き上がって来よう。

 この田中稔、その期待故か、2002年10月には正体を明かしたままマスクマンのヒートに。オリジナルに加えて「タイガー・ヒート」「ドラゴン・ヒート」「フェニックス・ヒート」への変身も予定されていたが、残念ながら未遂に。まさに猪木の肝煎りで格闘技路線を行っていた当時の新日本だけに、時流には合わなかったか。なお、このヒート、初のお披露目会見でマスクを被っていたのは、当時の新日本のソフト事業部のG氏。今だから明かせるが、理由は、「(その時、時間が合わなかった)田中稔に、背格好が似ていたから」だったとか。

ケロも読めなかったシリーズ名。


 昨年、コロナに倒れ、一時は重篤な状態に陥った田中ケロは、この武道館大会で復活。実は3月4日にトークライブでの復帰が既に発表されていたのだが、それに3日先立つ、意想外の大舞台でリスタート。新日本も、何とも粋なことをする。

 ご存じの方も多いと思うが、本人はどうしても新日本プロレス入りしたく、卒論のテーマを「日本に於けるプロレス経営」とし、参考と称して新日本を訪問。そこでリングアナを募集していることを知り、名乗りを挙げ、1980年、新日本入りした、いわば新日本信者。以降、勤続26年。2006年2月、新日本を退社する際は、「どんな選手が辞めるよりもショック」というファンからの声が、少なからずあったように思う。その田中ケロが、辞めるシリーズ、つまり、2006年2月のシリーズ名に対し、こう言ったことがあった。「これ、読めますか?意味、わかりますか?」指さす先には、『Circuit 2006 Acceleration』とあった。実を言って、筆者もよくわからなかった。「~パウンド」とコールしていた選手の体重を「~キロ」に直した田中ケロ。大一番の際の前口上も、全ては「お客様にわかりやすく」という熱意の表れだった。シリーズ名への疑義は、新日本と、ファンとの気持ちの乖離の憂慮だったのだと思う。それは、新日本への、果てしない愛情の裏返し。この50周年に際し、新日本が「新春黄金シリーズ」など、往年のシリーズ名が復活させているのも、どこか嬉しい。当日のコールを楽しみにしたい。

 そして保永。実は筆者が取材した中でも一番印象に残っている選手なのだが、というのは、プロのリングを降りてから、(こちらとして話を聞きたかったのだが)非常に捕まえにくい選手だったのである。ようやくアクセスに成功した際、「今、何をやってるかは、まあ、差支えなければ書かないでくれれば」みたく言われたのだが、普通にスポーツ関連のお仕事をされていたが、単純に、みだりに目立つのが好きではないという意味からの言葉だったようだ。

 ただ、取材自体は、非常に穏やかながら、しっかりと自分の意見は曲げぬ印象だった。そこで仰った言葉を、最後に置いておきたい。

「俺、レフェリーやってた時、1人亡くしてるからね。福田雅一……。柴田(勝久)さんの倅(柴田勝頼)とやったんだけど、柴田がコーナーに詰めてエルボーをやる時、目測を誤って腰骨が当たっちゃったんだよね。元々、福田は脳の怪我をやってるし。因果関係はわからない。なぜって、そもそもコーナーにつめてのエルボー自体が危ないんだよね(中略)。井上(亘)と柴田(勝頼)の試合だったかな?井上が、やっぱりコーナーに詰めてのエルボーをやって。凄く危険なんだよ。受ける方は完全に固定されてて、力の逃がしようがないでしょう?だから、試合後、凄く怒ったの。もっと他に盛り上げ方あるだろう?他にやることあるだろう?って。客を乗せなきゃいけないのに、客に乗せられているというね。それで、危険度が増していく。声を大にして言いたいのは、『プロレスは、明日のある戦いでなければならない』ということ。怪我や半身不随になるようなファイトしちゃ駄目なんだよって」

 職人レスラーとして名を残し、厳格なレフェリングでも知られた保永。当日の復活が、リングと選手の心に、確かな足跡を残すことを願ってやまない。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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