2022/1/31 12:33

武藤退団で新日本入りに一念発起!DDTの毒牙を浴びた先駆者!ありがとう、尾崎仁彦リングアナ

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武藤退団で新日本入りに一念発起!DDTの毒牙を浴びた先駆者!ありがとう、尾崎仁彦リングアナ
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1月29日のコール予定を最後に、新日本退社を発表(1月17日)。


 私事で恐縮だが、大学を卒業した直後、短期間だがサラリーマンをしていたことがある。はばかりながら、いわゆる一部上場も果たしていた企業であったが、そちらの先輩が、よくこう言っていた。「俺、将来的には、ディズニーランドで働きたいんだよね」「……??」。当時の職種と全く違っていたので、真意を問うと、こういうことであった。ディズニーランドは、数年後、海をモチーフにした新たなテーマパークを作る予定がある。なので、その時、新たなスタッフを大量に雇用するはずだ、と。そこに滑り込む機会を、虎視眈々と狙っているとのことであった。言わずもがな、今のディズニー・シーのことだが、筆者がその落成よりよほど早く脱サラしてしまったので、その先輩がどうなったかはわからない(苦笑)。ただ、その話を聞いた時は、筆者もまだ社会に出立てだっただけに、大振りながらも、その人生のプランニングに、妙味を感じたのは確かである。

 そして、現在の新日本プロレスにも、そんなスタッフがいた。2002年1月のことだ。武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンの主力3人と、幾人かの社員が退社し、全日本プロレスに移籍。その時、別の仕事をしていた彼は、こう思ったという。「スタッフが抜けたということは、必ず、新たな人員募集があるはず。いつでも応募出来るように、今、やってる仕事は、いつでも辞められるようにしておこう!」彼はその時、29歳になっていた。だが、新日本プロレスへの愛断ち難く、その社員になるチャンスを狙っていたのだった。尾崎仁彦リングアナ、その人である。

 既報通り、1月29日の後楽園ホール大会を持って、新日本プロレスを退社することになっていた尾崎アナ。ところがコロナ禍により同大会は中止に。SNSではタイチなどが何ならの助け舟を画策している動きもあるが、少なくともファンの前でのラストコールは、幻に終わる可能性が高く、残念な限り。さりとて、リングアナかつスタッフとしての同氏の粉骨砕身の努力が消えるわけでは決してない。退社が大きく報じられた時点で、改めてその存在の大きさを感じ取っているファンも多いことと思う。

 然るに、今回の当欄は、甚だ微力ながら『ありがとう尾崎仁彦アナ』としてお送りしたい。

新日本プロレスと同い年。


 尾崎仁彦アナは、1972年7月11日、東京都杉並区生まれ。今ではそこかしこで言われているが、1972年3月旗揚げの新日本プロレスと同い年。ご多分に漏れず、子供の頃から大のプロレス好きで、当時はミル・マスカラスのファンだったとか。さらに、小学校生時代後半を過ごした80年代前半は、初代タイガーマスクを擁した、まさに新日本プロレス・ブーム時。尾崎さんも文集に将来の夢を「プロレスラー」と書いていたほどだった。

 ところが、そちらの道には進まず、むしろ、新日本プロレスファンとしての自分を認識。大学生時はもちろん、新日本プロレスの会場に入り浸ったが、果たして卒業してスーパーに勤務し、出世を果たすと、新日本プロレスの観戦に合わせ、シフトを作成するように。

 そこに降って沸いたのが、前述の武藤らの全日本移籍。結局、中途半端も出来ぬと、自ら退職し、機会をうかがっていると、本当に新日本プロレスから、『営業アルバイト』の募集告知が。すかさず応募し、合格。そして、2002年8月29日の日本武道館大会に、他の合格者とともに招聘を受けた(※入社は翌月1日扱い)。しかし、それはまさに、新たな辛苦の始まりだった。

意外に少ない?6代目リングアナの座に。


 当日の日本武道館大会は、中邑真輔のデビュー戦や、KENTAの新日本プロレス初登場(vs井上亘)などもあり、好カード揃いながら、記録的な不入り。実は前日、国立競技場で伝説の総合格闘技イベント『Dynamite!』が開催。こちらにファンを獲られた格好となっていたのだ。それは、総合格闘技人気の後塵を拝していた、当時のプロレスの認知の表徴でもあった。これより先の時期を“暗黒期”とも称す向きもあるが、営業アルバイトとして採用された尾崎氏が先ず請け負ったのがまさに営業。具体的にはチケットの手売りであった。こちらについては、過去何度も、新日本プロレスの(何人もの出世した)フロントが通って来た道でもあるが、まさに叩き上げの道程。チケット数百枚を渡され、「とにかくそれを売ってこい」という形。しかも、完全な歩合制。売らなければ、自分が食いっぱぐれるのである。しかし、めげずに頑張っていると、1年後の2003年、社員に昇格。そこからは興行部を希望し、主にリング作りやパンフレット売りを手掛けていた。

 そして、2006年9月8日の千葉公園体育館大会で、今ひとたびの転機が訪れる。当日券売り場にいた尾崎さんに、先輩社員が声をかけてきたのだ。曰く、「ちょっと、声、出してみて」。言われた通りにすると、9月12日の山形市総合スポーツセンター・サブアリーナ大会からリングアナに。ご存じのように、持って生まれた美声かつ、スーパー勤務やパンフ売りで培った声量を買われたのだ。それは、大塚直樹、倍賞鉄夫、田中ケロ、山口秀幸、塩脇利昌に続く、新日本プロレス、6代目のリングアナの肩書を得た瞬間でもあった。

数々の選手と交戦(?)も。


 2007年よりは、メインのリングアナとして駆け抜けて来た尾崎さん。リングスタッフや、バスの運転手も兼務しており、多忙な日々を過ごして来たが、常に人当りはソフトで、また、決して自分を押し出そうとしない実直なスタンスを高評価する声は多かった。3団体が一堂に会した『ALL TOGETHER』の前日会見でも、淀みなく進行を務め、2016年よりのアニメ『タイガーマスクW』では、本人として登場(※声優は別人物だったが)。新日本プロレスのリングアナと言えば尾崎さんというところまで認知は達していた。昨年、新装なったIWGP世界ヘビー級ベルトのデザインについて、過去のIWGPベルトの特徴を少しずつ入れていることを説明したのも尾崎リングアナだった。個人的には、2010年3月20日、渋滞で選手バスの到着が遅れる中、無口で知られるエル・サムライ(当時はフリー)と、特に困惑することなく、場つなぎのトークショーをおこなっていたのが印象深い。

 とはいえ、メインのリングアナなわけで、やたらと選手に襲われてきたのも、宿命と言えば宿命か。飯塚に殴られ、石井にどつかれ、ファレにはスーツを破られたことも。珍しいところでは、ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンを立ち上げたばかりの内藤哲也に襲われたことも(2015年12月6日)。まだ認知が薄かったユニット名を、マイクで言わせられようとしていたのである。

 極めつけは、2009年12月12日、『SUPER J-CUP 5th STAGE』の事前会見に乱入した男色ディーノに、唇を奪われたこと(しかも2度)。なお、この時はファンも観覧していたのだが、本人が言うには、「素敵でした。意外と(唇が)柔らかいですね」と、やはりあくまでクールかつ、冷静であった。

 しかし、その底流には、やはり熱い新日本愛が。2014年12月13日、青森での棚橋とオカダのタッグ対決では、棚橋をこう紹介。「2014年度、プロレス大賞、MVP」。この6日前、棚橋は同賞を受賞したばかりだった。先日も、場外乱闘で鉄柵に選手が叩きつけられると、リングアナ席で、特異な行動を見せていた。机の上に置いてあった『BEST OF THE SUPER Jr.』の(ヒロムが持ち込んだ)優勝トロフィーを自らの手に抱えて守ったのだ。かつては衝撃で損傷したことのある同トロフィーに対するさりげない思慮に、胸が熱くなった。

 新日本と同い年ということは、50年での、次へのステップになる。冬の時代を経て来た新日本プロレスの、間違いなく中興の祖の1人として永遠に記憶し、改めて、感謝の気持ちと、ありがとうの言葉を送りたい。お疲れ様でした。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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