2022/1/25 15:12

あの選手も「オー!」を乱発!ジャンボとウリ2つの、あの人物!23回忌追善興行決定!ジャンボ鶴田・メモリアルを振り返る!

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あの選手も「オー!」を乱発!ジャンボとウリ2つの、あの人物!23回忌追善興行決定!ジャンボ鶴田・メモリアルを振り返る!
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5月31日、後楽園ホールにて『ジャンボ鶴田23回忌追善興行』開催!


 のっけから言うが、インターネット環境で見られるこの拙コラムで申し上げるのもなんなのだが、ネットに載っている情報を原稿の基底にすることは、あまりない。不肖・筆者が、ネットそのものの知識が浅く、また、古来より紙媒体に従事してきたこともあるが、何より、「ネットを頼りにしたところで、いざという時、正誤を保証してくれない」というのが大きかった。例えば、流石にこちらは虚実ないまぜなことを読者もご存じとは思うが、お馴染み、ウィキペディアの往年の外国人レスラー『ディック・マードック』欄を見ると、こうある。『1987年に新日本プロレスで勃発したNEWリーダー(中略)対NOWリーダー(中略)の対抗戦では、ゴングが鳴らんとする直前に猪木がマイクを持ち、「おーい出て来い」のGOサインで花道から現われ、星野(勘太郎)に代わるNOWリーダーの助っ人として活躍した』(※2022年1月20日時点)。

 オールドファンならご存じとは思うが、「おーい出て来い」のマイクは、1993年4月6日、藤原喜明が新日本プロレスに復帰する際、猪木が発したもので、それが、なぜ、ここに出て来るのか……(※因みにこの時、猪木はマイクすら持っていない)。それこそ10年以上前に書いてあったのだが、なにせネットに不案内な筆者だけに、「いつか、誰かが直すだろ」と思い、今、見たら、まだ書いてあることにもびっくりしたのだが(苦笑)。

 そんな筆者でも、ネットの情報におののいたことはある。2000年5月14日、旧友と飲んでいた時のことだ。まだ、インターネットを活用していなかった筆者は、友人に聞いた。「ネットでは、プロレスの情報て、凄いものなの?」「いやあ、どうだかなあと思うのも多いよ。今日も掲示板の類に、“鶴田死去”とかね」。その時は何とも思わなかったのだが、この2日後、驚愕した。ジャンボ鶴田選手は2000年5月13日の夕方、フィリピンにて客死していたのだった(日本との時差は1時間)。日本で公に一報が出たのは、5月16日の、各種夕刊から。ただ、日本テレビと縁あるスポーツ報知のみ、この日の朝刊で、『重体説』を報道。この時点で筆者は別のスポーツ紙の記者から「亡くなったようだ」と情報は頂いたのだが、あの時の、血の気が引く感覚は、今でも到底忘れられそうにない。ジャンボ鶴田と言えば、もはや、人口に膾炙した表現と言っていいと思うが、歴代最強レスラーを挙げる時、必ず名前が挙がる人物。筆者の頭の中で、鶴田と“死”というものを、まるで結び付けられなかったのだった。

 1月19日、『ジャイアント馬場バル』にて、意義深い告知があった。5月31日、後楽園ホールにて、『ジャンボ鶴田23回忌追善興行』を開催することが発表されたのだ。既に藤波辰爾、大仁田厚、秋山準の参加が決定。当日は、更に多士済々のメンバーで彩られることだろう。

 こういった、没後のメモリアル大会は、選手の逝去直後ならまだしも、それ以降も行われることは稀で、日本では象徴としての力道山と、あとは、ジャイアント馬場が3回忌、7回忌や没後20年などにその名を冠した大興行を行い、昨年2月4日には、『ジャイアント馬場23回忌追善興行』を後楽園ホールにて開催。その際、主催者が、「ジャイアント馬場さんの冠がついた大会は今回が最後になります」としたのは記憶に新しい。2009年6月、急死した三沢光晴も、毎年6月に、メモリアル大会なり催しが行われてきたのは、以前も本欄で特集した通り。今回の鶴田選手に関しては、大々的に大会としてそれを前面に出し、また、都下で行われるのは久方ぶりゆえに、故人の偉大さを改めて伝える、貴重な機会となるだろう。

 今回の当欄はこれまでの、いわば“鶴田メモリアル”を振り返り、また、前出の3人と鶴田との関りについても、照射してみたい。

全日本とノアに分かれても、どちらでも追慕された鶴田


 2000年5月13日、フィリピンにて客死した鶴田は、5月17日、無言の帰国。5月19日に密葬された。ちょうどその翌日は、全日本プロレスの『2000スーパーパワー・シリーズ』の開幕戦(大宮市体育館)。こちらの試合開始前、リング上で、かつての付け人だった三沢が巨大な遺影を抱え、選手、観客とともに黙祷がおこなわれた。というのは、10カウントゴングはシリーズ最終戦の日本武道会大会で行われることとなっていたため。鶴田の認知や全日本プロレスへの貢献を考えれば当然の処置だったが、実はこの武道館大会を最後に、三沢らは全日本プロレスを退団しノアを設立。つまり、三沢にとっては最後の大仕事だったことになる。最後に会った際(1999年3月)、三沢は、いわば兄貴分の鶴田に、「僕は何が起ころうと、三沢君の味方だから」と言われており、鶴田がプロレスラー人生をまっとうした全日本のリング、それも自身も3回一騎討ちした日本武道館で10カウントゴングを終え、三沢もホッとした部分はあったのではないかと拝察するが、どうだろうか。なお、黙祷のおこなわれた大宮市体育館大会では、その後、遺影がリングサイドに置かれ、全試合を見守ることに。メインを闘い終えた三沢が、「鶴田さんも嬉しかったんじゃないかな?久々にプロレスが観れて」と語っていたのが印象的だった。

 翌2001年には、全日本プロレスとノアで、それぞれ追悼興行の類が。全日本は5月20日のシリーズ開幕戦の後楽園ホール大会を『ジャンボ鶴田一周忌追悼特別興行』として開催。メインはそれを汲んだ、『メモリアル・バトルロイヤル』。ここでサプライズが。まず16選手が鶴田の入場テーマ『J』に乗って登場すると、曲が『汚れた英雄』に。こちらはターザン後藤のテーマ曲。実は後藤は元は鶴田の付け人で、1985年に海外修業に出発も、帰国はFMWのリング。故郷の全日本プロレスから離れてしまっていた。それがここに来て、なんと15年7ヵ月ぶりの古巣復帰。まさに鶴田が呼び込んだ縁と言えた。更に、契約形態が変わり、スポット参戦契約となっていた天龍が、このバトルロイヤルのしんがり選手として登場!ライバル同士だった鶴田、天龍だが、この日は天龍が鶴田の「オー!」ポーズを乱発する大サービス。90年代は団体を違え、リングでの再会がなかった2人だが、それを引き合いに出し、「俺の中では、10年近く会ってなかった分、久々に全日本に上がっても、『鶴田の奴、またアメリカに遠征に行ってるのかな?』という気持ちなんだよね」と、泣かせるコメントを残した天龍だった。

 ノアはこの年、命日に送れること約1ヵ月の6月10日、『ジャンボ鶴田一周忌追悼大会』を開催。会場は鶴田の地元、山梨のアイメッセ山梨を使用。客入れや休憩中の曲が鶴田の歴代の入場テーマなのは元より、鶴田のシューズ、タイツなども展示。しかも、試合前には鶴田が眠る慶徳寺で一周忌法要が行われ、ノアの選手はもちろん、ファン数10名も参加(終了後、バスで試合会場に移動)。音頭を取ったのは鶴田の後援会だったが、それに快く応じ、それ以上の厚意で応える三沢に、鶴田への思慕が見えた。当日は長兄の恒良さんが挨拶したのだが、この方がジャンボ鶴田本人にそっくり。顔だけならまだしも上背まで似ており、記者やカメラマンたちの「『あれ?ジャンボだ』って、何度か、ドキッとした」との述懐が懐かしい。母の常代さん、姉の年子さんも観戦し、中でも常代さんは、この日の選手たちが、鶴田の得意技であるジャンピング・ニーやバックドロップを、いつも以上に多用していたのを報道陣に振られると、「実は私も、そうじゃないかと思って観てたんですよ」と、感無量の面持ちだった。

 翌2002年は命日前日の5月12日の後楽園ホール大会にてセレモニーが。黙祷が捧げられたが、遺影を持ったのは、他でもない天龍だった。更に粋だったのが、2004年。5月22日の後楽園ホール大会のメインイベントで、天龍は渕と組み、アジアタッグに挑戦(vsグレート・コスケ&獅龍)。ちょっとしたベルトコレクターの実績もある天龍だが、意外にも同王座は巻いたことがなく、しかも前年1月に同じ渕とチャレンジも敗退していた(vs嵐&荒谷)。捲土重来を期したこの日、天龍組はなんと、鶴田との『鶴龍コンビ』の合体入場テーマで登場。むろん、命日が近かったためだが、勝利。「お客さんの後押しを感じましたね」とした天龍だったが、この試合、その客が最も沸いたと言っていいシーンが、天龍が試合中、「オー!」を見せたシーンだった。

 翌2005年には命日の翌日、2005年5月14日に、新日本プロレスの東京ドーム大会で、藤波&三沢vs蝶野&ライガーが実現。藤波組が快勝したが、試合後、「昨日は鶴田選手の命日でしたが?」と記者に振られると、藤波は「忘れようもない。(鶴田戦は)叶わぬ夢だったけど、三沢選手にどこか(鶴田を)ダブらせていて。あんまりマイクであれこれ言うの好きじゃないから、でも、本分とするものを実現させて下さいよ、と」と、三沢の隣でニヤリ。藤波が子供の頃からの憧れの選手だった三沢も上機嫌で「今後、機会がありましたら」と返答。とはいえ、この年の11月、新日本は身売りとなるお家の一大事。夢は夢のまま終わるかと思いきや、藤波が『無我ワールド・プロレスリング』として独立した翌年の2007年9月、ノアの日本武道館大会で、三沢&潮崎vs藤波&西村が実現している。

 他、藤波は、2014年4月13日には、ノアの山梨市民総合体育館大会に出場。というのも、この場で、『ジャンボ鶴田追悼記念試合』が組まれており、その上でオファーでの快諾となった。カードは、鶴田と同じ元全日本かつ、山梨出身である井上雅央と組んで、小川良成&ザック・セイバーJr.と対戦と、なんとも通好みのカードが組まれていた(※雅央が小川に惜敗)。

鶴田のメッセージ、受け取った藤波


 さて、今回、既に参加が決定している3人と、鶴田との関りについても触れてみたい。大仁田は全日本プロレス時代の先輩、後輩の仲。以前、話をうかがった時に言っていたのだが、「ちゃんこ代とか、徴収するんだよね。そういうのって、この世界はなあなあだったりじゃん?だから、全然、新しいタイプの人として見てた」とのこと。その分、他人に立ち入ることもなく、性格は、「朗らかで優しい人」とのこと。ただ、よく大仁田が言われたのが、「プロレス一辺倒の人間になっちゃダメだぞ」。社会人として、視野を広く持てとの意味で、鶴田の人生観の一つでもあったが、こと、大仁田に対してはこの言葉の効力はなかった?! 余談だが、少し意外に感じたが、「一度も戦ったことはない」という言葉。大仁田は当時は全日本本隊のジュニアの雄。体制面も体格面も古式にしっかりのっとった、古き良き全日本プロレスを逆に回顧した次第だった。

 秋山準にとっては鶴田は、まさに尊敬すべき先輩。秋山の観てきたプロレスのベストバウトが1990年4月13日、東京ドームにおける、鶴田&キング・ハクvsカート・へニング&リック・マーテル。鶴田が「オー!」を乱発し、ドームを何ともアゲアゲの空間に持っていくのだが、秋山自身、1992年にプロ入りしても、「1年に1度は見え返してた」という。新弟子時代、スパーリングもしたが、鶴田は当時、41歳。だが、「全く歯が立たなかった」(秋山)という。また、知られる話だが、秋山のジャンピング・ニーは、鶴田の直伝。尊敬の念から教えを請い、鶴田も快く授けたという。もちろん、当日の試合でも炸裂することだろう。

 藤波については上記でも幾つか触れたが、1つ秘話を。鶴田はフィリピンで移植手術中に亡くなった。だが、これは結果論で、鶴田の生きようとした意思そのものであり、臓器移植そのものについて鶴田本人は、非常に前向きな考えを持っていた。藤波も同じで、1997年、臓器移植法の施行後、すぐ、自分が脳死になった場合、臓器を提供する意思があるかを表明する『意思表示カード』(ドナーカード)を、家族ともども登録した。だが、「命のことだし、自分は自分。他人は他人」と、藤波はそれを公言してこなかった。

 だが、鶴田の死後、先述のように全日本からは大量離脱が起き、10月9日には、当時、藤波が社長を務めていた新日本プロレスの東京ドーム大会に参戦。その対抗戦がメインとされた。すると、当日のパンフレットに、黄色いカードが挟み込まれていた。ドナーカードだった。

「一緒に、考えてみませんか?というメッセージです」(藤波)

 藤波を突き動かしたのは、もちろん自らもドナーカードに登録していた鶴田の、その考え方を知ったからだったという。

「臓器提供は、僕が人間として出来る、最後の他人へのプレゼントだから」。

 当日の大会の成功を楽しみにしたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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