2021/9/27 8:39

西村知美、本田美奈子と並ぶ快挙達成!明確に決まっていた結婚相手!追悼・風間ルミ

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西村知美、本田美奈子と並ぶ快挙達成!明確に決まっていた結婚相手!追悼・風間ルミ
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9月22日、悲しみの訃報。


『東京スポーツに好かれている選手』というのは、確実に存在する。以前も書いた永田裕志は好例だし、個性的な猛特訓が紙上を賑わせた小橋建太、最近ではファミレス会談を行う内藤哲也もそうだろう。そして、その女性レスラーもそうだった。2002年当時、実年齢なのに、東スポ記者に「自称36歳」と書かれ、写真集を出すと、新宿の紀伊国屋書店で、松坂慶子の写真集の売り上げを、「一瞬ですが、抜きましたね!」とインタビューされていた(※会場での雑談で)。そばで見ていた他媒体かつ若輩者の筆者は、(な、なんか失礼じゃないかしら?)と恐れおののいていたのだが、当の本人はあっけらかん。「ギャハハ、も~、やめて下さいよ。それより写真集、1000冊買って!」と、特徴でもある奇麗なハイトーンボイスで笑っていた。同紙では、高齢のご意見番風キャラとして通っており、「警察を憲兵と言ってしまうの」とか、「キックの世界では、沢村忠選手と同期です」など、かなりハチャメチャな味付けがなされていたが、本人は、「東スポさん、勝手に書くんですよ~(笑)」と笑っていた。

 その風間ルミさんが逝かれた。享年55と、本当に早すぎる悲報となった。楽しい思い出が多いだけに悲しみは尽きないが、今回は哀悼の意味も込め、その人となりを振り返りたい(文中敬称略)。

秋元康作詞でデビュー!


 ご存じのように、風間ルミは1986年、ジャパン女子プロレスの旗揚げ戦でプロデビュー。本人は既にシュートボクサーとして名を馳せており、お馴染み、神取しのぶ、及び、同団体を立ち上げたジャッキー佐藤、ナンシー久美と並ぶ4枚看板として、そのキャリアをスタートさせた。とはいえ、他の3人と決定的に違っていたのは、風間にはアイドル・レスラーとして味付けがなされたこと。それもふんだんに。これは、旗揚げ当時のジャパン女子プロレスが芸能事務所『ボンド企画』が携わっていたことが大きい。現に旗揚げ戦では同事務所所属のアイドル、本田美奈子、及び少女隊のミニライブが行われていた。風間も翌年にはシングル『都会の流星』でレコード・デビュー(当時はCDとレコードの共存期だった)。作詞があの秋元康なのも凄いのだが、驚くべきはその形状。なんとハート型のレコードだったのだ。後にこのハート型盤でデビューしたのは、西村知美、本田美奈子、ソフィ・マルソーに続く4人目だったと聞いた。金の卵ぶりがうかがわれよう。また、激闘による喉の不調で出演を断念したが、現在も放送を続ける『ミュージックステーション』への登場も内定していた。同じくデビュー2年目には、老舗の男性誌『PENTHOUSE』でセミヌードを披露している(1987年7月号)。なお、こちらの活動でのキャッチフレーズは、『プロレス界の本田美奈子』。前出の事務所の肝煎りも感じられるが、風間が当時のプロレス関係者にも評判が高かったのは事実で、某専門誌のH記者はプライベートで握手会に行くほど大ファンだったし、『全日本プロレス中継』の解説を務めていたプロレス誌の編集人かつ、台のミル・マスカラス好きのTさんが、「ジャパン女子プロレスは色々言われるけど、とにかく風間ルミはいい女ですよ」と仰っていたのも思い出す(※余りそういうことを言うタイプに思えなかったので、大層驚いた記憶が……)。よって、実は戦績は強者の部類に入っていたのだが、筆者の目にはあくまで、1人のアイドル・レスラーとして映っていたのも事実である。

 その風間の環境が一変したのは、1992年のことだった。

女子プロ史上初の、社長兼レスラーに。


 この年、ジャパン女子プロレスは解散。団体の末期にはよくあることだが、後年は何度も社長が代わり、最後の5カ月間は給料が出なかったという。一念発起した風間は神取らと、LLPWを旗揚げ。名刺が2枚、用意された。『風間ルミ』と、本名の『斉藤ルミエ』。後者には、『代表取締役』の文字。そう、風間は日本の女子プロレス界では当時初の社長レスラーとなったのだった。逆に言えば同業界は、今まで背広組が仕切っていたことになるが、当時の風間の、こんな発言がある。「受け身も取らない奴に、試合についてあれこれ言われたくない。私達は、彼らの駒じゃない」。一本気な情熱が感じられる台詞だが、本当は別の事情もあった。スポンサーが4社あったのだが、それらが資金を出す条件が、「風間が社長を務めること」だったのだという。つまり、路頭に迷う選手たちのことも考え、自らがその責務を負ったのだ。取材に出向くと、風間の机に、以下の書籍が並んでいたのを思い出す。『取締役の法律』『マルチメディアがわかる本』、もちろん、ビジネス上必須の総合仕訳帳等々……。実際、苦労は尽きず、最初は道場がなく、東京・港区のディスコ『GOLD』の1階フロアを、週末を除く、月曜から木曜まで借りていた。練習するのに、まず、自分たちでリングを組み、自分たちでそれを撤収するのだった。

 1992年8月29日、後楽園ホールでのLLPW旗揚げ戦では、選手たちは、客席の後方から入場。「選手たちも、皆さんと同じ、人間なんだ」と示したかったという。どれほどジャパン女子プロレスの末期に、非人道的な扱いを受けていたかがしのばれるが、風間が社長になったことが、全てを好転させた。風通しはグンと良くなり、業績も年々、上向きに。マスコミ内での評判も良くなった。冒頭の東スポのエピソードは、社長としての後年ではあったが、明るい団体の空気も感じられよう。

 そんな風間に驚かされたのは2000年11月22日のこと。なんと突然、バーリ・トゥードにチャレンジしたのだ。LLPWは『L-1』という総合格闘技大会を主催していたが、この時が3回目のそれ。実は風間は「1回目から、出たくてしょうがなかった」とか。でも、当時は社長業が大変で……。ようやく経営も落ち着いたから、良いかな、と」。

 改まるが、風間は女子プロレス界きっての、格闘エリートだった。

幼少期からの、運動エリート。


 子どもの頃からスポーツ万能。中学生時代はバスケットボール部に、高校では新体操部に所属するが、こちらは1年経たずに退部。「行儀が良くて、つまらなかった」と語る。直後に心をとらわれたのが、友人に誘われて行ったキックボクシング。実はこの時から既に「将来は体を動かす仕事がしたい」と思っており、当初は「体育の先生」を視野に入れていたが、女子のキックボクシングもあると聞き、こちらに専心。高校生ながら、五反田のジムに住み込み、そこから高校に通ったという。両親の猛反対があったようだが、それをも跳ね返す熱意があったことになる。五反田なので、事務所が近くにあった当時の全日本女子プロレス入りも夢想し、関係者のツテを辿ったことも。しかし、その関係者に、「身長が足りないのでは」と言われ、153cmと小柄な風間は断念。プロを目指していた女子のキックボクシングも、日本女子キック協会が幕を下ろす事態に。この時、次の選択肢として活躍の場をシュートボクシングの世界に求める選手が多く、風間もこちらに移籍。メキメキと実力を上げた姿を、ジムに来たジャッキー佐藤に見初められ、スカウトされたのだった。そこに柔道王者の神取も入ったジャパン女子、そして、続くLLPW。同じくジャパン女子から分派したJWPが華やかさなら、こちらは強さを売りにしたイメージは、読者の方々にもあったのではないか?

 しかし、風間の、こと、プロレスに対する思いは、それ以上のものだった。

旗揚げ戦で、結婚を果たした風間。


 秘話を一つ置いておきたい。それは、今回の訃報にあたり、再び脚光を浴びることになった、1993年11月9日の、北斗晶との髪切りマッチである。報道で知られるように、風間が負けて髪を切ったわけだが、この時の大会は、メインの北斗含め、全8試合、全日本女子プロレスと、LLPWの全面対抗戦の形をとっていた。以下は、2012年の、風間の述懐である。

「自分の試合よりも他が壮絶だった。セミのひとつ前までが、ほとんど向こうがつぶしにかかる試合でね。秒殺で終わって、うちの選手がみんな控え室に帰ってきて泣いているんですよ。いつからうちはパンクラスになったんだって腹が立ってね。全女のスタッフが仕掛けたらしいんですけど、プロとしてどうなの?業界人としておかしくない?って思いましたね」(『CIRCUS MAX』2012年12月号より)

 LLPWの旗揚げ戦。メインで神取と対戦した風間の入場時の衣装は、観る者を驚かせた。ウェディングドレス姿だったのだ。華やかさと裏腹の決意が、そこにあった。実は社長業の激務で、この3日前に風間は昏倒。疲労の蓄積からだった。女性の月の物も、1年間止まったという。「社長をやる以上は、とても結婚なんて無理だとわかったんです。でも、それならそれでいい。私はプロレスと結婚するんだという気持ちだったんです」(風間)

 2003年の引退以降、国会議員となった神取の公設秘書を務め、片や、食育アドバイザーの資格を取り、2010年、自らの飲食店を開いた風間。そこには山本小鉄や天龍源一郎、果ては前田日明率いるOUTSIDERの選手や三原じゅん子議員までが詰めかけて賑わい。いつも笑顔に包まれていた。その後も選手のマネージャーを務めたり、心理カウンセラーの資格を獲ったり、花火師にもチャレンジしたり……。皆、言うことだが、あの小さな体のどこからそんなパワーが生まれるのか、不思議なほど、日々、エネルギーに満ちていた。

 筆者のような末端の人間が言うことではないが、天国では、少し休んでいて良いのではないか。いずれ同舟する、彼女を慕う選手たちは、また請うだろう、彼女を長とする団体に集うことを。それを風間が断れるとも思えないからだ。

 心からご冥福をお祈り申し上げます。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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