2021/6/21 8:48

過去2回の大会に出ているあのプロレスラー!猪木に新たな肩書が!? 新日本プロレスで2連戦決定!『西武ドームと、プロレス&格闘技』

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9月4日(土)、5日(日)に、2連戦!


 ライブハウス通いが趣味の一つである筆者なのだが、コロナ禍での緊急事態宣言期間内には、やはり随分変化があった。都内のいわゆる時短営業要請により、夜8時までに演奏が終了するのである。当然、その分、開演時間は午後5時や6時など、早まるわけで、特に平日会社務めをされている方には、最初からの鑑賞は難儀だったと思う。ただ、良い側面もあった。夜8時までに必ず終了するため、早く帰路に着ける。このお陰で、関西などの遠方から観に来る客が増えたのである。宿泊せずとも、日帰り出来るというわけだ。そんな状況を目の当たりにし、思い出す新日本プロレスの会見での発言があった。

「ギリギリ大阪までは新幹線で帰れる終了時間を想定しています」

 2014年、当時の手塚要社長の言葉である。直前に発せられたのは、「試合開始は午後3時を予定しております」という情報。この年の8月10日、プロレス界初の西武ドーム大会を開催するにあたっての会見だった。当日は日曜日であり、つまりは翌日からウィークデー。関西からの日帰り客を見越しての、それは方策だった。同大会を成功させたい新日本プロレスの意気込みが感じられた。

 あれから7年。新日本プロレスが再び西武ドーム大会にチャレンジすることが、6月16日、発表された。それも、今回は9月4日(土)、5日(日)の2連戦。同時に、5月に行われる予定だった東京ドーム大会の振替日程も7月25日(日)に決まるなど、まさにビッグイベントが目白押しの夏となる。

 期待と展望を込め、今回は西武ドームにおけるプロレス&格闘技をおさらいしてみたい。

上昇の契機にしたPRIDE


 現在は『メットライフドーム』の名が付く西武ドームの格闘技初使用は、2000年の8月27日。当時からのファンなら覚えていようが、主催は総合格闘技『PRIDE』だった。ところが、この大会、『PRIDE』にとってはメモリアルなそれ。大会名が『PRIDE.10』。そう、記念すべき10回目の大会だったのだ。

 1997年10月に発進したPRIDE自体、途中で経営母体が代わるなど、紆余曲折を経て、約3年越しでの10回目大会。成功への鼻息は荒く、5月30日には、以下の概要の発表がなされた。「会場やインターネットでファンの声を募り、カードに反映する」。当時は今ほどのネット環境ではなかったので、具体的には6月4日、名古屋で行われる『PRIDE.9』でアンケート用紙を配布。見たい選手やカードを募るとした。結果、当日のカードは、桜庭和志vsヘンゾ・グレイシー、佐竹雅昭vs村上一成、石沢常光(ケンドー・カシン)vsハイアン・グレイシー、藤田和之vsケン・シャムロックなどなど。どれほどの民意が反映されたかは定かではないが、当日、かなり驚くことがあった。休憩明けに『炎のファイター』が流れると、アントニオ猪木が登場。当時の森下直人・PRIDE社長から、こう紹介を受けたのだ。「PRIDEプロデューサー、アントニオ猪木氏」。以降、猪木はその役割を果たすことになり、この次の『PRIDE.11』には小川直也も出陣。小川も藤田和之も、それ以前にPRIDE参戦経験はあったが、より関係は強固になったことは否めない。実際、当時よりPRIDEの運営に携わっていた榊原信行氏(現RIZIN CEO)は、こう語っている。「PRIDEが上昇気流に乗ったのは西武ドーム大会から」。確かに、集まった観衆も主催者発表で3万2919人。無印ながら大入りであった。しかし、榊原氏の意図は、猪木軍との関係強化や興行自体の成功以外のところにもあったようだ。

「あの、うだるような暑さね。行った人は絶対忘れないわけですよ。記者さんも。イベントってのは結局、そういう一種、異様な体感が、一番の印象を残すから」

 そう、夏の西武ドームは、尋常じゃなく、暑いのだった。

新日本が“たまアリ”でなく、西武ドームを使った理由。


 1999年3月より、“ドーム化”された西武ドーム。この表現通り、元は『西武球場』であったものに、屋根を付けたもの。それが西武ドームであった。したがって、球場と屋根の間に隙間があり、“場外ホームランが出る可能性のある、ドーム球場”になっている(筆者もアレックス・カブレラ選手の場外ホームランを目撃している)。よって、大型扇風機は常備されているものの、全体的な空調を望むのは無理なことで、空気がこもり、夏、暑く、冬、寒いのである(因みに暴風雨の際は、雨も降り込む)。筆者も当時、プレスで入っていたが、待機場所のダックアウトの上部がテントでおおわれており、更に空気が停滞。滝のような汗が流れ出る一夜でもあった。

 この、良く言えば真夏の伝説を機にPRIDEが躍進して行くのは前述の通りだが、以降、西武ドームの使用はなし。とはいえ、これはおそらく暑さが理由でもなく(それは開催時期を調整すれば良いので)、2000年の9月1日より、同じ埼玉県下にある『さいたまスーパーアリーナ』がグランド・オープンしたことが大きいだろう。以降、格闘技の常打ち会場としては、こちらが定番化していった。

 そしてこの『PRIDE.10』以降、14年ぶりに同所にリングを組んだのが、冒頭のように、2014年8月10日の新日本プロレス。当日のタイトルは、『バディファイトPresents G1 CLIMAX 24』として、その最終戦。記憶にまだ新しいように、この年のG1の決勝を、西武ドームでおこなったのだった。大会自体の発表がされたのは、まだ8カ月前の、この年の“1・4”東京ドームにて。つまり、かなり肝煎りのイベントであった。同球場を本拠地とする埼玉西武ライオンズとのコラボTシャツも発売されたし、当日は、最寄りの駅まで、臨時列車が増発されたほどである。

 ところが、これもご記憶の方は多いと思うが、当日、2日前より、台風接近のニュースが。ドームなので、別に雨天中止はないわけだが、以下の告知が新日本からなされていた。『強風雨天の場合、スタンド席「上部」のお客様はカッパやレインコートをご持参ください』。

 新日本プロレスは、さいたまスーパーアリーナを使用したことはない。にも関わらず、ここに来てのあえての西武ドーム使用には、れっきとした理由があった。当時の手塚要社長が語っている。

「充実の現状から、次の世代の開拓へ。それが西武ドームなんです」(『日刊スポーツ』2014年7月17日付)

選手たちの、捲土重来に期待!


 時の新日本の業績は、まさに倍々ゲーム。2011年度に11億円だった売上が、翌年のブシロードへの親会社交代を経て、2014年7月決算の当年度では、約23億円!興行を打てば満員という表現も、既に大袈裟ではなくなっていた。そこで、会場フォーマットでの冒険に出たのである。1月4日の東京ドーム以外での野球場での開催の狙いは、ズバリ、“家族連れ”。「野球場は世間一般に向けてキャッチーな場所。女性や子供を誘いやすいでしょう」(前出紙)。現行のファンを大事にしつつ、次の世代に繋がるファンを新たに呼んでみたいという企図だったのだ。

 当日は台風も避けられ、決勝はオカダ・カズチカvs中邑真輔の、CHAOS同門対決という黄金カード。こちらは同年のプロレス大賞ベストバウトに輝く名勝負に。セミファイナルでは、2ブロックの公式リーグでのそれぞれの2位が激突することになっており、フタを開ければこちらも棚橋vsAJスタイルズという極上カード。広いドームを意識したのか、棚橋の鉄柵越えのハイフライアタックが光っていた。なお、桜庭和志が第3試合の6人タッグに登場。こちらは西武ドームでのリングに14年ぶりの登場。前回のPRIDEから出ているのは、もちろんこの桜庭だけだった。

 観客動員は、主催者発表で18,000人。無印で、また、台風の恐れもあったか、「ガラガラ」という評価もSNS上では目についたが、あくまで私見を許させて頂ければ、成功に思えた。なぜなら、例年通り両国国技館で決勝をやっていれば、どんなに頑張っても11,500人で札止めである。それが、「G1の決勝で、1万8千人レベルの客を呼べる」とわかっただけでも大きかったと思う。事実、この年の12月1日、現在も続く動画サービス『新日本プロレスワールド』の開設発表会見で、テレビ朝日の取締役(角南源五氏)が、こんな見通しを語っている。「会員数の目標は、当座は2万人で。西武ドームの集客が1万8千人あったようですし」

 今回の西武ドーム大会に関しては、昨年より続く、“三密”対応での野外会場の再評価、並びに、5月15日に行われる予定が、延期を経て、結局中止となった横浜スタジアム大会の代替的な側面もあると思う。そもそも2連戦とは強気ながら、ご存じの方も多いと思うが、7月22、23日に、大阪府立体育会館2連戦が予定されており、これは例年なら『G1 CLIMAX』の開幕戦となるスキームである。どちらも大会名からして違うため、まさか西武ドーム2連戦もG1の決勝になるとも思えないが、ここに来ての大会場使用、並びに、国から発表されたイベント収容上限人数の改定(1万人)を鑑みると、いずれにせよ、かなりの大勝負をかけて来る可能性はあろう。

 最後に、前回の西武ドーム大会で、印象に残った2人を。第1試合、女性問題で謹慎していたタイチがこの日、鈴木軍のセコンドとして復帰(翌シリーズより試合復帰)。そして、第6試合で本間朋晃を下しながら、浮かぬ顔だったのが内藤哲也だ。試合後、「ずっと、ここのメイン(G1の決勝)を目指して頑張ってきたので……」と30秒ほど、黙ってしまった。前年は優勝していただけに、心中察するに余りあるし、当時の内藤には、なぜかブーイングが飛ぶという状況もあった(ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン立ち上げは、翌年の11月)。

 あれから7年、タイチも内藤も、取り巻く状況を、完全に自分のものに変えた。棚橋がよく語る、プロレスの魅力がある。「プロレスは、結果じゃなくて、過程です。例えば総合格闘技で、急に強い選手が呼ばれてきて勝って、それでファンは感動しますか?プロレスはそこが違う。長い苦労をファンが選手とともに歩むからこそ、その時々の光に、感動するんですよ」

 来る西武ドーム2連戦。タイチと内藤の2人に注視しつつ、楽しみに待ちたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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