2021/5/24 11:33

王者ドタキャンを2度食らったあの選手!2度、負傷返上したあの三冠王者!オスプレイ返上&帰国!『IWGP王座返上』を探る!

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王者ドタキャンを2度食らったあの選手!2度、負傷返上したあの三冠王者!オスプレイ返上&帰国!『IWGP王座返上』を探る!
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5月20日、第2代王者、ウィル・オスプレイが返上!


 子供の頃読んだプロレス大百科の類の『アジアタッグ王座』の解説の小見出しに、こうあった。『返上が多いタイトル』。なんとも不名誉な気がするが、改めて読んでみれば、納得も納得。その書籍が出た1984年3月までで、第38代目までの王者(組)を数えるのだが、うち、返上(ないし、選手の逝去等で空位)となったことが、実に16回もあったのだ。現役である日本マット最古のベルトゆえ、管轄団体の崩壊もあったし、読者の皆様もご存じのように、いわば“若手の登竜門”たる同タイトル。自身の成長とともに、返上してしまう選手が多かったのである(かつて同王座を保持したジャイアント馬場、アントニオ猪木が好例)。しかし、メジャー団体の顔であり、まして、新設されて3カ月も経たぬシングルタイトルで、突然の返上劇が起こるとは……。

 5月20日(木)の夜、衝撃的なニュースが流れた。第2代IWGP世界ヘビー級王者であるウィル・オスプレイの、イギリス帰国が決定。並びに、同王座の返上が新日本プロレスから発表されたのだ。5月4日の福岡大会における同選手の首の負傷(全治、及び、復帰時期は未定)、及び、その治療への専念が理由との明示もあったが、瞬間、驚きとともに、苦い気持ちにもなった。IWGP世界ベルトはまだ2代目だが、前身のIWGPヘビー級王座もまた、それこそ先週も偶然触れたが、新日本プロレスの看板タイトルでありながら、いわくつきの返上多きタイトルだったためである。

 今回はこの『IWGP返上』について詳述し、また現状について探ってみたい。

GHCヘビー級王座、ただ一度の返上の理由。


 3大メジャー王座と言えば、当時の本欄でも触れたが、昨年末、秋山準選手がDDTのKO-D無差別級王座をそのラインアップに加えたことで話題になった。しかし、歴史を概観すれば、やはり新日本のIWGP、全日本の三冠ヘビー、ノアのGHCヘビーの3つということになると思う。因みに、それぞれ、その創設(※三冠の場合は統一)から、38年、32年、20年の時が過ぎている(※IWGPはタイトル化からは34年)。然るに、その返上の内訳を見てみると……。

 GHC王座は1回。三沢光晴の逝去の翌日、防衛戦を控えていた秋山準が返上を申し出たもの。結局、秋山が指名した潮崎と、本来の挑戦者である力皇が当日、決定戦をおこなった。当の秋山自身はこれに先立ちリング上で、「自分の不甲斐なさに申し訳ない気持ちでいっぱいです。本来であればチャンピオンとして、三沢さん、そしてみなさんに最高のプロレスを見せないといけないんですが、今の自分にはそれができません」と謝辞を含めた挨拶をしたものの、状況が状況だけに、心中、察するにあまりあった。

 対して、三冠王座が返上されたことは7回。王者、小橋の退団による空位処置もあったが(2000年6月)、曙の不整脈(2014年5月)や諏訪魔のアキレス腱断裂(2016年1月)など、病状や負傷による王座返上が多いのが特徴。中でも川田利明が、まさに防衛戦での負傷で2回、王座を返上しているのは、まさにその激闘の証左でもあろう(1999年1月、2002年2月)。

 さて、一方でIWGP王座のそれは(タイトル化からは)8度。理由が、負傷だけにとどまらないのが、その特徴だった。

負傷理由だけでない、IWGP返上。


 最初の返上は、1988年4月。猪木が返還したもので、理由は右足の甲の骨折。だが、返上直前に、控室で藤波との張り合いがあった。よく新日本の過去のVTRでも流れる、控室での悶着であり、いわゆる藤波による『飛龍革命』の狼煙でもあった。プラス、知られざることだが、この時期、猪木は某政党から、都内のある地区からの立候補を打診されていた。実際には翌年、自らの政党『スポーツ平和党』での立候補、及び当選となったわけだが、これについては、なぜご破算になったかも含め、いずれ書いてみたいが、いずれにせよ、それらの状況をひっくるめての、返上扱いともとれた(猪木はその後、約2ヵ月欠場)。つまり、藤波への期待も含めた部分でもあった。事実、直後に新王者となった藤波は、次のシリーズで、なんと3度の防衛戦を発表されている。しかも、相手が坂口征二、マサ斎藤、長州力。結局、こちらは長州2回とベイダーに相手が代わったが、藤波への当時の期待が見える。

 それに応えた藤波は、計7度の防衛に成功しながら、翌年3月に、同王座を返上。理由は「初の東京ドーム大会にあたり、ベルトの権威を高めたいから」。東京ドーム大会で、改めて同王座決定トーナメントをおこないたいとしたのである。何となく会社主導の措置ととれなくもないが、同様のケースは2000年にも。時の王者、佐々木健介が、ノンタイトルで川田利明(当時、全日本プロレス)に敗れ、王座を返上。別団体のエースの負けた故の禊であった。改めて翌2001年1月4日の東京ドーム大会で、同王座決定トーナメントがおこなわれたのだった。

 以降、図らずも、新日本プロレスとIWGPヘビー級王座は、自らの針路を保てることなく、他団体の起こした潮流に巻き込まれていく。

2度の王者ドタキャンを食らったあのエース。


 2001年12月には、藤田和之が同王座を返上。理由はこの年の大晦日に予定されていた、K-1側との対抗戦向けの練習中、アキレス腱を断裂したもの。IWGP王者として当然、翌2002年の1月4日には同王座の防衛戦が予定されていたが、こちらも流れた。その相手だった永田裕志には、緊急の代替カードとして、秋山準の持つGHCヘビー級王座への挑戦権が与えられたが、永田は惜敗した。

 2004年1月4日には、中邑が高山善廣相手にIWGP王座を防衛も、2日後に返上。これまた前年大晦日の格闘技興行が関しており、中邑は、まさに新日本の代表としてアレクセイ・イグナショフと対戦。あの伝説の曙vsサップの前に試合は位置され(つまりセミファイナル)、入場直前には、新日本のお馴染みのオープニング曲『ザ・スコアー』が流されるお膳立ても。しかし、同試合で鼻骨を骨折。その上でIWGP戦登壇は成したものの、結局、レフェリーストップになったのだった。会見に同席した田中秀和リングアナ(当時)は、「次の王者をトーナメントで決めるとしても、暫定王者としたい」と言明。「真輔は新日本のために頑張ってくれた。今度は新日本が真輔を守りたい」との理由が胸に迫る。

 2004年6月2日には、ボブ・サップがIWGP王座を返上。先立つ5月22日、『K-1 ROMANEX』のリングで、藤田和之と対戦。一方的にやられ、2分10秒、サッカーボールキックによる、ギブアップ負け。音を上げたのだった。この翌日、既に、谷川貞治イベント・プロデューサー(当時)が、「IWGP戦は、止めた方がいい」と発言。結局、前出の通り、6月2日に返上となったが、新日本側の交渉役である上井文彦・執行役員が、知ってか知らずか、「K-1サイドさんも必死で説得を行ってくれたんですが、戦える状態ではない」とコメントしているのが、当時の両者の力関係を表しているようで辛い。そして、この返上は、次の防衛戦の僅か3日前。その6月5日には、棚橋がサップに挑戦するはずだった。結局、棚橋は藤田和之と決定戦をおこなうも敗れた。

 2006年7月には、王者ブロック・レスナーが、IWGP戦をドタキャン。こちらの内幕については、はからずも、先週の当欄で触れた通りである。大きく言えば、棚橋は挑戦者として、2度のドタキャンを食らったのだった。

新王者はトーナメントで決定予定。


 以降、棚橋が新王者となり、雌伏の時を経て、プロレス人気が復活したのは周知の通り。数々の横風にあおられつつも、諦めなかったことに、現在の新日本プロレスがある。

 試合での負傷による同王座返上は、他にも確かにある。1998年9月の蝶野正洋(※前月に王座奪取)や、2009年8月の棚橋(※2ヵ月前に王座奪取)などなど。しかし、前者は負傷から2日後、後者は負傷の翌日には。ベルト返上を発表している。

 よって、負傷でのIWGP返上は、決して珍しくはない。ただ、オスプレイの直近の試合が5月4日で、その時、(帰国するほどの)首の負傷があったのであれば、なぜ、その発表、及びベルト返上までここまで日付が開いたのかは、多少、気にかかる。もちろん、新日本プロレスとしても、緊急事態宣言への対処が先決としてあって不思議はないし、その上での興行日程、もっと言えば、IWGP世界ヘビー級王座戦の延期も勘案しての処置、対応もあったことだろう。しかし、オスプレイは(前)王者である以上、重要な選手であることに変わりはなく、怪我の状態、並びに、全治時期については、明示する必要があるのではないか。どうもこういうことがあると、やれ、他団体に移籍だとか、巷間言われるご時世でもある。オープンな情報開示はあって、損はないと思う。それが軋轢に負けずに新日本プロレス、並びに最高峰の王座を守って来た、先人たちへの厚情となるとも、信じたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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