2021/5/3 7:18

天龍にバックドロップ炸裂!ライガーもタッグを熱望!手術前ファイナルマッチ!“火の玉小僧”菊地毅特集!

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天龍にバックドロップ炸裂!ライガーもタッグを熱望!手術前ファイナルマッチ!“火の玉小僧”菊地毅特集!
5.0

5月3日、地元仙台で、手術前、ラストマッチ!


 1990年代の全日本プロレスと言えば、いわゆる“四天王プロレス”。伝説とされる激しいファイトで圧倒的な人気を呼んだ。目を閉じれば思い出せるがごとく、その記憶が明らかな読者も多いことだろう。ところが、その鮮明さに反比例するかのように、不明瞭なものがある。それは、リングを降りての、各選手のイメージ、いわば、素顔だ。こちらは、今でこそ回顧ものの書物やトークショーの類で明らかになるようになったが、当時は、ほとんど出てこなかったと言っていい。各人、専門紙誌の取材は受けるのだが、話すのはあくまでリング上のこと。一般紙誌の取材を受けてなかったとは言わないが、その数も同時期の新日本プロレスやFMWと比べれば、圧倒的に少ない。“鎖国体制”。これは、時の全日本プロレスと他団体との関係を表すのによく使われた4文字だが(※1996年より、徐々に雪解け)、こと、それは、マスコミの取材に対しても、一種、同様だったと言えよう。

 ところが、(激しい言い方を許して頂ければ、)そんな鎖国体制が堅牢も堅牢だった、1992年のことだ。友人が言ってきた。「全日本プロレスの選手は、プライベートはトランクス派が多いんだって!」「……はぁ?」選手の下着事情に興味はないし、まあ、あまり有用な情報とも思えない。だからこそ気になった。「何でそんなこと、知ってるの?」専門紙誌に、そんな情報は載ってなかったし、当時の全日本からして、載ると思えない。取材時間が限られる一般マスコミならなおさらだ。友人は、A4の紙を見せた。確かにその情報が載っていた。しかも手書きの字で。他にも、巡業中の三沢、小橋の様子含め、その人間性感じられる逸話が掲載。リング上の姿しかわからず、一種、彼らを神格化する部分のあった自分には、そのA4の紙の内容は衝撃かつ、急に距離が近くなったように思え、清新な感動を呼び起こす一枚でもあった。紙のタイトルにはこうあった。『TSU46NEWS』。菊地毅が、ファン向けに個人発行していた、会報だった。全て手書きで、タイトルは、自身の名前と、当時の自宅が国道246号線そばにあったことをなぞらえたもの。友人によると、既に6号を数え、シリーズの開幕戦前後に送られてくるということだった。後にある記者から、聞いた。「菊池さんは筆まめでね。ファンレターには返事をちゃんと書くし。会報?そうそう、シリーズ合間のオフの時、一生懸命自分で書いてたな。『ファンが喜んでくれれば』って」……。

 あれから30年近く。デビューしてからは33年になり、菊地毅のラストマッチが近づいてきた。5月3日、仙台PITでおこなわれる金本浩二戦に、以下のタイトルがついているのだ。『33年間!集大成!~涙のリングファイナルマッチ~』。実はこの一戦の後、長年患って来た首の手術をするという。よって、『プロレス、皆さんと一時お別れをします』(本人のTwitterより)。同時にこうある。『生涯現役でいたい気持は変らない。爆発』。引退試合としないのは、この気持ちあってのことで、あくまで現時点でファイナルという心持ちなのだろう。

 全日本プロレス、ノアと、記憶に残るファイトを繰り広げて来た“火の玉小僧”。今回はこの菊地毅の、目下のところのプロレス人生を振り返ってみたい。

初代タイガー、キッドに憧れたファン時代。


 1964年、宮城県仙台市生まれ。高校生の時、ちょうど、“初代タイガーマスク”ブームが到来。初代タイガーと、そのライバル、ダイナマイト・キッドに憧れた。実は体を鍛えるのが趣味で、既にそれ以前から高校のアマレス部で研鑽していたが、以降はプロレス入りを目指し、更に精進。大東文化大学時代である1986年の全日本選手権では金メダルを獲得している(※フリースタイル。100kg級)。同大学顧問は鶴田と知己があり、コネクションも作った。というわけで、実績からしても即入門が当然だったが、ところがである。履歴書を何通出しても、全日本プロレスから返事が来ない。にもかかわらず、1987年の3月28日、後楽園ホール大会に出向いて、入門をジャイアント馬場に直訴すると、馬場は言った。「よし、今日から巡業について来い」「!?」。結局、1週間後に入門した。後に、その日を境に、当時、全日本が提携していたジャパンプロレスの面々が分裂。多くの選手が新日本プロレスに出戻ったとわかった。一種の人手不足だったのだ。プラス、デビューすると、履歴書の返事が来なかった理由も、なんとなく自認するようになった。低身長。同期の北原辰巳(後に光騎)が早々と海外に出、同じく小橋健太(現・建太)に、馬場と組んでのアジアタッグ挑戦権が与えられるなどすると、その思いに輪がかかった。

 しかし、そんな菊地を躍進させたのも、その小兵ぶりと言ったら過言となるだろうか。菊地は90年の6月を境に一気にブレイク。その時期も、鶴田と抗争していた天龍ら全日本の選手たちが、結果的に大量離脱。ゆえに、菊地自身、メインに出るチャンスが巡ってきたのもあるが、ある男との絡みが、菊地の存在感を際立たせたのだった。そう、“怪物”ジャンボ鶴田である。

vs天龍に名乗りを上げた真意。


 公称でも、196cmと177cmと、身長で約20cmの差がある2人。超世代軍(三沢、川田、小橋)の一員として鶴田軍(他に田上明、渕正信等)と戦うと、その隔たりが露骨に可視化された。鶴田のスリーパーホールドでマットから足が離れ、宙づりになる菊地。アマレス流のタックルを仕掛けても鶴田は仁王立ちで、逆にその背中を両手でパチンと叩き、赤い手型を残した。実はもともと鶴田に付け人だった菊地。さながら、聞き分けのない生徒と指導する先生を彷彿。“15文キック”とも呼ばれたビッグブーツで顎が外れ、直後に食らったラリアットで再びそれがはまったことも。もちろんバックドロップも食らった。余りにも手酷い鶴田の攻め。『週刊ゴング』に、読者のこんな一言コメントが載ったのを覚えている。『菊地が死んだら、鶴田のせいだ』。それほどのインパクトだった。

 しかし、同時に、菊地の人気は急上昇。やられてもやられても立ち上がるその姿が、ファンの共感を呼んだのだ。憧れた“爆弾小僧”、ダイナマイト・キッドのユニオンジャックのトランクスにヒントを得た日の丸(旭日旗)タイツ宜しく、“火の玉小僧”の異名も頂戴した。冒頭の会報を菊地が作っていたのもこの頃だった。

 だが、90年代半ばになると、菊地は徐々にメインからフェイドアウト。前座の第1試合で若手の壁を務めたり、いわゆる、『悪役商会』に表徴される“楽しいプロレス”に参加するようになって行く。1996年には8度目の挑戦にして世界ジュニア王座を奪取。渕にバックドロップの連発で苦杯を何度も舐めた同王座に遂にの戴冠は、言うなれば菊地時代のスタート。つまり、まだ現役バリバリどころか、これからだったのだが。理由を、こう語る。

「俺の中で守りに入ったの。このまま超世代軍でやってたら死ぬって。肉体的に、もう死ぬなって」(『週刊大衆』2018年4月16日号)菊地は1995年2月、一つ年下の女性と入籍していた。

 今年で2021年。前出の悪役商会ではないが、2000年代、それも、ノアとの選手契約がなくなり、フリーとなった2010年以降は、いわゆる、“お笑いプロレス”でも名を馳せた菊地。2010年10月6日の『マッスル』では、日本テレビ系バラエティーでおなじみの『笑ってはいけない選手権』と同じ趣向が採られたのだが、顔芸や、珍妙なマスクマン姿含め、その最終兵器として登場したり、2011年1月3日のユニオンプロレスでは、試合ではなく、大家健とパン食い競争。デッドヒートとなり、客席から「ベストバウトだ!」との声がかかると、松井レフェリーが、「俺もそう思う」と返す場面も(結果は、2.5枚vs1.5枚で、菊地の勝利)。個人的には2010年の8月24日、DRAGON GATEの試合で、休憩終了時の曲を、自身の入場曲と間違えて入ってきてしまったのが可笑しかったのだが。「DRAGON GATEさんが、新しい入場曲を用意してくれたのかと……」(菊地)同時期、世界ジュニア王座を語ったことがある。「俺にとっては悪い思い出。恥ずかしい。だってずっと獲れなかったんだから。普通、3回挑戦して獲れなければ、ファンならそっぽを向くと思うし。悪夢だよ」(2008年11月27日)

 だが、同時に、2011年3月6日、主戦場にしていたユニオンプロレスに天龍源一郎の参戦が決まると、高木三四郎に直談判した。「俺は天龍さんと、組むより、戦いたいんだよお!」迎えた天龍戦(6月2日)では、惜敗も、バックドロップを仕掛けた菊地は、こう振り返った。「(鶴田さんのように)ヘソ投げで投げたかったけど、(ドリー・ファンクJr.のように)足を持ってのあれが精一杯でした(笑)」。そして、こうも口にしている。「鶴田さんがどういう思いで(天龍さんと)戦っていたのか、知りたいと思った。私はこのように体と小さいし、力も及びません。当時のようには体も動かない。でも、気持ちだけは向かって行くことが出来ました」。そう、菊地の熱き心は、鶴田と戦っていた時と、決して変わっていなかったのだ。

ライガーも高評価!


 2000年、ノアの旗揚げに参加し、小橋のパートナーを請われれば、封印していた日の丸タイツでそれに応えた。2002年にはノアの代表として、IWGPジュニアタッグも奪取。2004年には勢いそのまま、ライガーの持つIWGPジュニア王座にも挑戦。ライガーから、「好きな場所(会場)を選べ」と挑発され、地元の仙台を選んだ。「後がない状況を作りたかった」(菊地)。結果は敗退。だが、ライガーは試合後、言った。「菊地とは男同士、リングでわかり合えると思っていて。その通りだったから満足している」決着後、マイクで、「菊地と組んで、ノアジュニアを改革してやってもいいぞ!」と、抗争中だったノアジュニアに宣戦布告したのが、ライガーにしてはその類い希な高評価を物語っている。2008年には、因縁の世界ジュニア王座にチャレンジ。王者は既にノアの泰斗、丸藤だった。過去の渕vs菊地を思い起こさせるように、菊地にバックドロップ10連発を見舞う丸藤。その度に立ち上がる菊地。丸藤がコーナーに宙づりにした菊地に、隣のコーナーポストから、フロム・コーナー・トゥ・コーナーを見舞う。瞬間、菊地はかわしてみせた、腹筋の力で上体を上げたのだ。44歳とは思えぬ、鍛え抜かれた肉体だった。試合後、勝利者トロフィーを菊地に渡し、自身は早々とリングを降りる丸藤の姿があった。2009年、ハッスルのリングでRGと対戦。頭突きもエルボーも生で入れ、完敗したRGが「……やり過ぎでしょ……。やっぱ、ノアだけはガチやな……」とマイクで冗談めかして言うと、瞬間、ゼロ戦キックを見舞った。2012年1月、ZERO1でNWAジュニア王座に。苦労した世界ジュニア王座と違い、笑顔を見せた菊地は言った。「子どもの頃観てた初代タイガーマスクさんが巻いていたベルトですよね?キッドともやった……。同じ王座が巻けて嬉しい」

 プロ入りに際し、全日本プロレスを選んだ理由には、やはり、あの男の存在があったという。「鶴田さんの影響も大きいんですよ。鶴田さんはプロに入るとき『全日本プロレスに就職します』と言ったけど、俺にとってもプロレスは就職だったから。就職イコール、長く試合をしていきたいなあと」(『週刊大衆』2017年6月5日号)

 そして、2018年、デビュー30周年を迎えた際には、こんな言葉を残している。

「30周年は通過点。自分も馬場さんのようにプロレスに向き合い続けたい」いわずもがな、馬場は生涯現役だった。

 手術の成功とリング復帰を願い、まずはファイナルマッチでの熱きファイトの全開に期待したい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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