2021/4/5 10:50

初代タイガーにも影響!人柄を賞賛したK-1戦士!追悼“キックの鬼”沢村忠。

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初代タイガーにも影響!人柄を賞賛したK-1戦士!追悼“キックの鬼”沢村忠。
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3月26日、78歳で永眠。


 プロレスラー&格闘家への個人取材の醍醐味に、「体験者しか知りえない肉体的事実を聞き出せた時」というのがある。取材していれば、それは全部そうじゃないかと思われがちだが、浅学な素人なりにリングを観て判断していたことが、選手本人の発言によって、目からウロコ宜しく、覆される瞬間があるのである。例えば、中西学がK-1に挑む際の公開練習を観て、筆者はその打力の凄さに舌を巻いたのが、トレーナーの一人は極めて厳しい表情で言った。「とにかく肩の筋肉が邪魔だ。(筋肉が)付き過ぎてる。あれでは一度、(腕を)ひいてからじゃないと強いパンチは打てない」……。体験から来るエピソードとしては、天龍選手が、6人タッグトーナメント出場時に言った、「タッグマッチなら1日2試合は動きを落とさずにいける。同じように6人タッグマッチなら、1日3試合は大丈夫」という言葉が、リアルで好きだった。

 ボクシング経験もある元K-1選手にお話しを聞いた時も、見方を少し変えさせられる発言があった。それは、いわゆる、試合の後遺症で、“パンチドランカー”に陥る危険性に話が及んだ時だった。「いや、K-1とかキックは、それほどは(その危険性は)高くはないですね。もちろんボクシングと比べてという意味ですが」。その理由を、こんな風に言った。「K-1やキックは、攻撃対象が全身ですから。ボクシングみたいに頭部中心よりは、その危険性はかなり低くすることが出来るんですよね」

 3月31日、伝説のキックボクサーの訃報が入った。“キックの鬼”、沢村忠さんが、亡くなられたのだ。プロレスしか観ないという方も、さすがにその名は聞いたことがあるのではないだろうか?そして、その必殺技名、“真空飛び膝蹴り”についても。なにせ、1973年には、セ・リーグ初の三冠王になった王貞治(読売ジャイアンツ)を差し置き、『日本プロスポーツ大賞』を受賞。233勝(228KO)5敗4分という凄まじい通算戦績も含め、まさにレジェンドなのである。しかし、失踪(後述)や引退後は、業界と関りを絶ったこともあり、それこそ「パンチドランカーになってしまったのでは?」などという憶測も流れた、ミステリアスな後年を過ごした選手でもある。

 今回の当欄は、当時のキックボクシング人気や、有名プロレスラーへの影響、また、珍しい、本人によるK-1選手への評価などに触れつつ、偉大な故人の足跡を辿り、悼みたい。

日大芸術学部シナリオ学科卒業の才人!


 沢村忠は、実はリングネームで、本名は白羽秀樹。日大芸術学部シナリオ学科卒のインテリだった。母方の祖父の影響で、格闘技は幼い頃からたしなんでいたが、それは空手。ところが、この背景が後に希代のキックボクサーを9生み出すのだから、人生というのはわからない。1966年1月、新たな格闘技『キックボクシング』の協会を立ち上げた、野口修(日本キックボクシング協会)が、沢村の空手の実力に目をつけ、声をかけたのだ。1966年4月、東京は飯田橋の喫茶店にてのことだった。そう、前後するが、今でこそキックボクシングはあたかも一般名詞のように使われているが、そもそも、この野口氏がタイのムエタイを元に立案した、日本固有の格闘技だったのだ。さて、野口氏は沢村に、こう言った。「いくら空手が強いと言っても、ムエタイにはかなわないよ。明日、試合があるから、やってみない?」。この売り言葉を買う形で、なんと沢村は本当に翌日のキックボクシングの試合に出場(大阪府立体育館)。そして、まさにタイ人選手に快勝。2戦目にも完勝し、3戦目でリングを降りることを考えていた。ところがこの3戦目でインド系のタイ人相手に完敗。なんと16度のダウンを奪われる惨敗で、気づくと病院のベッドの上だったという。負けじ魂に火が点き、タイまでムエタイを学びに出かける。ところが、現地に着いてみれば、年端を行かぬ子供ですらムエタイを修行しているお国柄。「今からムエタイを学んだところで、とても間に合わない」と感じた沢村は、自分独自の必殺技の生み出しに専心する。それが必殺、真空飛び膝蹴りだった。

毎週ゴールデンタイムに、4つの局で中継!


「沢村忠さんが好きでねえ」7年ほど前、佐山聡さん、ご存じ初代タイガーマスクを取材した時の言葉だ。「当時の子どもはみんな真似したと思うんですが、あの、真空飛び膝蹴りね。僕は蛍光灯からブラ下がっている紐に向かって打ってましたね。届くと嬉しくてねぇ。気付くと、他の人にはない動きや跳躍力が身についていたことは、否定出来ないですね」。あのジャンボ鶴田も、自身の得意技、ジャンピングニーパットについては、「沢村忠さんの真空飛び膝蹴りを意識した」という発言がある。これはおそらくリップサービス的側面もあろうが、それほどまでに一世を風靡した真空飛び膝蹴り、および、沢村忠ということにはなろう。理由は、当時のテレビ中継における、凄まじいまでのキックボクシング人気があった。

 最初は、試合のビデオを放送局に持ち込んでも無視されたというが、TBSのスポーツコーナーにて不定期放映されると、人気が爆発。1968年9月30日(月)の、午後7時~7時半よりTBSにてレギュラー放送が開始されると、他局もこれに追随。1969年8月に至ると、ちょっと信じられないことだが、なんと4局にてゴールデンタイム時にキックボクシングが毎週レギュラー中継!内訳は、毎週日曜日の18時半から19時にNET(現テレビ朝日)、毎週月曜日が先述のTBS、毎週木曜日が20時から1時間枠の日本テレビ、毎週土曜日が20時から1時間枠で東京12チャンネル(現テレビ東京)。

 先ほど触れたキックボクシングの一般名詞化も、この人気ならわかろうもの。よって、雨後のタケノコのように新たなキックボクシング組織も中継に先んじて生まれたわけだが、当然、1番人気は沢村を擁するTBS。なにより、試合が面白かったというのが、当時を知る関係者の述懐。真空飛び膝蹴りもそうだが(筆者が見た後年は、ロープに押し込んで返って来るところに見舞うことが多かった)、とにかく、スタミナも違っていたようだ。異常に打たれ強い肉体は、バットやビール瓶で自らを殴打し、鍛え上げたもの。格闘技界隈のマスコミには今でも語り草のエピソードとして、沢村の腹に記者が鉄拳を叩き込むと、記者の方の小指が骨折したという実話がある。

 ところがその沢村、1976年6月の、大阪府立体育会館の試合が終わると、突然、消息不明に。当時、33歳。人気絶頂だったゆえに、それこそ、「パンチドランカーとなり、再起不能なのでは?」とか、「事件に巻き込まれたのでは?」など、さまざまな噂が業界を駆け巡った。しかし、その1年3カ月後の1977年10月9日、沢村はひょっこり馴染みのジムに姿を現すと、言った。「明日の後楽園ホール大会で、引退の挨拶をしたいのですが……」。果たして翌日、同所で引退セレモニー。トレードマークの髭を剃っていたため、見ても誰だかわからない関係者が続出。視聴者もさらにそうなるに違いないと、同セレモニーでは、髭をマジックで書き足したという笑い話のような逸話も伝わっている。

 そこから業界との関りを絶った沢村。引退から約20年してから、ポツポツと取材には応じるようになったが、一つには、どうも、「死亡説」が流れるのに対し、健在ぶりを示したかったというのもあったようだ。キックボクシング時代の仲間と食事していると、「キックボクシングと言えば、沢村忠さんって、いたじゃないですか。あの人、亡くなられたんですって」と目の前で店員に言われたこともあったという。

 珍しく、K-1戦士に言及した記事も。同じく飛び膝蹴りを駆使するレミー・ボンヤスキーがK-1に初優勝すると、以下のコメントを残した。『飛びヒザはとても勇気がいる技なんです。躊躇したりしては出すことが出来ない。ボンヤスキー選手は思いっきり助走して迷うことなく飛んでます。思い切りがいいし、スピードがある』(『ゴング格闘技』2004年2月号)。そんな高評価のあと、ボンヤスキーの印象を、こう締めている。『とても紳士的な印象を受けます。常識的な頭を持ち、このスポーツに対して真剣な態度で取り組んでいる、真面目な姿勢で生活を送っている、ということが試合を通して伝わって来ます』……(同誌より)。

こだわった引退日付。


 キックボクシングには場外乱闘がない。だから、エプロンに机をつけて沢村の試合を実況していたアナウンサーは、常に資料を丸めて手に持って話していたという。広げていると、試合中、選手から鮮血がほとばしり、資料にかかり、読めなくなることが多発したためだった。無論、自分の衣装も降り注ぐ血で真っ赤となり、すぐに使い物にならなくなったという。スターだった沢村は、しかし、それでも試合に出続けた。額の傷が癒えねば黒いストッキングを患部に巻いて。打撲は日常茶飯事なので、冷やして治すのを止め、温めて治すという荒行を取った。激痛が走ったが、冷やすと1週間かかる打撲が2日で治ったという。加えて、本人が大の子供好き。空前の人気に子供のファンも多く、その子供たちが楽しみにしてると思うと、試合を休めなかったという。恵まれぬ子共たち、特に体の不自由な子供たちの施設をよく慰問した。感謝の言葉を述べられると、言った。「テレビで僕の頑張る姿を見て。僕も、どんな時でも、あきらめずに戦うから」。本当は30歳で引退を決めていた。だが、3年延ばした。実は脳波について毎月、しっかり診断を受けており、33歳を超えると、徐々に乱れも見られるようになった。ドクターに、「そろそろ辞めた方が」と進言され、興行日程が大幅に空く期間を調べ、姿を消し、1年療養。腹を決めた。

 引退後は、大好きだった車の世界へ。自動車整備工場で3年間、手取り13万円で修行し、うち、自分で工場を持った。目黒区の3LDKのマンションに妻、一男二女とともに暮らしたが、現役時を彷彿とさせるトロフィーも写真も置かなかった。それも含め、業界から一時、完全に距離を置いた理由の一つについて、こう語っている。『“かつてのあの沢村だ”ということが子供にわかったら、子供はそれを自慢するかも知れない。喧嘩をして相手を殴るようになるかもしれない。それがこわいんです。(子供は)“ぼくの父ちゃんは、ずっと昔から修理屋だ”と思ってるし、ぼくもそう思われていたい』(『週刊宝石』1986年12月19日号)。前出のように、沢村がわずかながら、表舞台に出て来たのは、最後の試合から20年経ったあと。息子は成人していた。

 プラス、引退に際し、こうも言った。「僕はスターなんかじゃなく、一介のアスリートだと思ってるし、そうありたかったんです。引退した身の人間が、業界と関りを持ったら、それはタレントとか、客寄せパンダになってしまうから……」

 前述の1977年10月10日、後楽園ホールの引退式。「ギャラは要らない」という沢村を押しとどめ、功労金を関係者がリング上で渡すと、「全国の施設に寄付します」と言った沢村。しかし、セレモニー後、「突然だったのに、この日に引退したいという気持ちを快く聞いてくれたので」と関係者に感謝することしきり。同日を選んだ理由は、「東京オリンピックが開幕した日、体育の日だったから」だという。

※3月30日より、新たな拙著『笑えるプロレス』(本体600円+税税)が、全国のコンビニエンスストアで発売中です。コンビニ専用書籍となりますが、ご興味のある方は、各種店舗にて、手に取っていただければ幸いです(黒い表紙&背表紙が目印です)

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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