2021/3/29 11:20

小川直也のサインを代筆?あのU戦士をチクリ?追悼・古賀稔彦とプロレス&総合格闘技

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4.5

癌による闘病の末、53歳で永眠。


 全日本プロレス・諏訪魔の挑発もあり、リング復帰も取りざたされる小川直也。とはいえ、橋本真也相手の暴走ファイトなどあり、どうしてもプロレス界では鬼っ子的な扱いをされてきた選手でもある。筆者も何度か取材させていただいているが、これは以前も書いたが、強烈なオーラを感じるとともに、どこか超然的なイメージがあった。言い換えれば、孤高の一匹狼のような佇まいがあったのである。よって、あるトーク番組で、小川が、以下のように言い始めた時、少々緊張が走った。

「自分が書いた覚えのないサインが、よく出てくるんだよね」偽物の横行?転売目的?すると、同席していたもう一人が言った。「それ、俺が書いたの(笑)。道場で、欲しいって教え子が多いから、真似て(笑)」古賀稔彦だった。2人が同級生で親友同士であったのを、改めて知った(フジテレビ『ボクらの時代』。2008年8月10日放送分)。前述のように、どこかアウトサイダー的な心象のあった小川だけに、古賀の言葉に相好を崩す姿を見て、新鮮な感動を感じたのを覚えている。

 3月24日、その古賀稔彦が天に召された。53歳という若き死に、驚きの声も多く、その偉大さについても、まだ統べられてない段階ではあると思う。変わらないのは、彼が希代の柔道家であり、残した足跡も、他に比肩なきものだったという事実だろう。

 今回は、当欄らしく、古賀稔彦とプロレス&総合格闘技というテーマでお送りし、故人を悼みたい。

柔道=畳でやるプロレス?


 古賀稔彦と言えば、言わずと知れたバルセロナ・オリンピックの柔道金メダリスト。リングを主戦場とする中にも縁ある選手は多く、例えば『GRABAKA』の菊田早苗は、日本体育大学柔道部時代に、3年後輩としてその指導を受けているし、韓国の総合格闘家、ユン・ドンシクは、前身の柔道家時代、古賀稔彦に勝利。こちらを謳い文句として、鳴り物入りでの『PRIDE』登場を果たしている(2005年4月)。変わったところでは、2003年12月31日におこなわれたあの、曙vsボブ・サップのリングサイドにも古賀稔彦は登場。他にプロボクシング元世界王者の畑山隆則氏なども列席したが、要は格闘技の興行として、彼らが箔をつける形となった。

 とはいえ、本人は総合格闘家に転じることもなく、プロレスラーになるわけでもなく。つまりは柔道家の完全アイコンとして今後も語られるだろう古賀稔彦だが、そもそも、兄の元博さんも柔道家であった古賀ファミリー。男兄弟だけに、柔道を知らぬ幼少期から互いを相手によく体を動かしていたようだが、実はその内実の一つが、プロレスだった。『私と弟は部屋をリングに見立て、プロレスをしていた』(古賀元博著『古賀稔彦が翔んだ日』葦書房より)。激闘だったようで、箪笥の上からのボディアタックに潰される形で、稔彦が右手を負傷し、病院に直行したことも。そして、何より、この古賀兄弟が、柔道を始めるきっかけとなったのが、近所の道場に通っていた学友の以下の一言だった。「柔道って、面白いよ。畳の上でやるプロレスみたいで」兄の元博さんの方の同級生の言葉で、元博さんは当時小学3年生。稔彦は1年だったが、2人同時に道場入り。そこから頭角を現したのだった。

 代名詞は、169cmと、小兵の体格から繰り出す背負い投げ。自分より体重的に重い強豪たちを投げ飛ばす姿は爽快そのもので、『平成の三四郎』との異名も頂戴。だが、その古賀が「自分の体の方が宙に飛んだのは、あれが初めて」という敗戦を喫した試合があった。

 それが1990年4月29日、日本武道館でおこなわれた体重無差別の全日本柔道選手権大会の決勝戦。相手は小川直也だった。

ブッチャーと化した(?)小川。


 先述のように、同級生で、仲の良かった2人。注目されたのは古賀の方が早く、小川のブレイクは、1987年、ドイツでの世界選手権に補欠として出向いたところ、日本選手の負傷で代打出場し、いきなり優勝してしまったことから。冒頭のトーク番組でも、古賀は、「小川は、天才とは呼ばれてなかったな。まあ、巨人とは呼ばれてたけど(笑)」「こいつは補欠だし、無差別級だから、同じ部屋で俺が減量で苦しんでるのに、オニギリとかバクバク食ってた(苦笑)」と当時を思い出し、チクリ。

 さて、その2人の対戦は、まさに前出の一度きり。無差別ながら決勝まで勝ち進んだ古賀稔彦。当時、体重は75kgだったが、決勝までに戦った4人の体重の総計は、約520kg。準々決勝では155kgの選手を倒し、準決勝では108kgの選手を背負い投げ!決勝で相対した小川は、当時130kg。自分とは実に55kgの差があった。果敢に攻めた古賀だが、小川の足車で宙に浮かされ、敗戦。ただ、印象的なのは、この一戦をめぐる、小川の方の発言だ。当日を迎えるにあたっては、「もし(古賀との一戦が)実現したら、僕は悪役ですよね。こりゃアブドーラ・ザ・ブッチャーだ(笑)」。そして試合後は、「判定決着だけは避けなきゃと必死だった。(体格面で)判官びいきが作用する可能性があったから」。対して、小川も入れれば計650kgの5人を1日で相手にした古賀。この日を振り返る記事には、「負けて悔いなし」「爽やかな敗戦」など、その健闘を称えるものが今でも多いが、どっこい、古賀本人のこの一戦における本音は、大分違うようだ。「柔道は武道とはいっても、本質的には格闘技。殺し合いの場で、“体重が軽いから死んでも仕方ない”とは誰も考えない。(中略)僕にとっては情けない試合なんです」(『アサヒ芸能』2021年1月14日号)。

 そういえば、先に触れたプロレスごっこでの右手負傷の際、兄弟は父の前で正座させられ、父に、どちらが悪いかを聞かれたという。怪我をさせた兄の元博さんは当然、「自分が悪い」とした。だが、稔彦は答えた。「どちらも、悪くない」。当時、小学校にも上がっていないのにである。

 自責を鑑み、それを勝負への高い志に結び付けられる心持ち。それこそが古賀稔彦の本分なのだった。そしてそれは、プロレスや総合格闘技に対する、柔道そのものへの確固たる自信と愛情へ昇華して行った。

グレイシー柔術を喝破。


『前評判が高くて強気な発言をしていた割に、自ら「参った」したのは残念でした』。『ゴング格闘技』2003年10月号の古賀のコメントである。内容は、同年8月10日におこなわれた吉田秀彦vs田村潔司について。負けた田村に対する感想であった。同試合、田村は吉田の袖車に敗れたのだが、古賀は言う。『田村選手の場合は、「(吉田は)柔道で世界一かも知れないけど、プロの世界はそんなもんじゃない」と(戦前)言ってたじゃないですか。でもその割には吉田がホイスにやった絞め技でいとも簡単にやられてましたね』。さらに、同誌で、こう続ける。『今のアマチュアでも世界を目指している選手なら、「参った」する選手なんて、まずいないですよ』(同『ゴング格闘技』より)。文中にある、袖車で決まった吉田vsホイスについても、同試合の直後に、こう分析している。『(袖車は)僕ら柔道家には今時、単純過ぎてかかってくれる選手はまずいません』(『週刊ポスト』2002年10月4日号)。更に理路整然と論ずる。『ハッキリいって、柔道の方がグレイシー柔術より遥かにレベルが上だと思いましたね。(中略)どんなスポーツでも競技人口が多ければ多いほどレベルは高くなるもので、技術的に見れば五輪種目にもなっている柔道の方が、グレイシー柔術より上なのは当然のことなんですよ』(同『週刊ポスト』より)。それは、2000年の引退後も『古賀塾』を主宰し、後進の育成に人生をかけた柔道家としての矜持ではなかったか。

 では、1997年4月12日、東京ドームにてプロレス・デビューした小川をどう思っていたのか。実はこの戦前、一通の手紙が届いた。古賀からだった。「お互いに頑張っていこう、応援しているから」という内容が書いてあったという。実はこのデビュー戦の前日、古賀は披露宴をおこなっており、タイミングもあり、小川のことを聞かれ、やはり、こう言っている。「自分で決めたことなら、納得するまでトライしてほしい。応援してます」後年、この時のエールについて、こんな回顧をしていた。『手紙?そういうのは当たり前のこと。(プロレス入りに)結構なバッシングもあったけど、オリンピックにも一緒に行った仲。いつまでも頑張ってほしかった』(『スポーツ報知』2017年4月5日付)

 自らの息子2人も、柔道家として育て上げた古賀。プロレスラー、総合格闘家を経て、結局は柔道場を主宰した小川や吉田の決断には大喜び。近年も、「いずれは道場同士で、対抗戦、出来ないかなあ?本当、夢が広がるよなあ」と、嬉しそうに語っていたという。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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