2021/2/15 18:26

決めていた一騎打ちの結末!逝去翌日の武藤の行動とは?武藤敬司GHC戴冠記念!三沢とのストーリーを探る!

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決めていた一騎打ちの結末!逝去翌日の武藤の行動とは?武藤敬司GHC戴冠記念!三沢とのストーリーを探る!
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2月12日、ノアの至宝・GHCヘビー級王座を奪取。


 2009年の1月4日、IWGPヘビー級王者として棚橋弘至の挑戦を受けた武藤敬司は、戦前、こう言った。

「タナと、IWGP王座をかけて東京ドームのメインで戦うことは、俺には昔からわかっていたのさ」

 これを伝え聞いた、棚橋の答えは、以下だった。

「いや、それ、本当かよっ!?と(笑)」

 2月12日、歴史的な王座交代劇が起こった。既報通り、ノアの日本武道館大会のメインで武藤が潮崎豪に勝利。御年58歳にしてGHCヘビー級王座を奪取。3人目のメジャー3大王座(他、IWGP、及び三冠統一ヘビー級王座)制覇を成し遂げたのだ(他の2人は、高山善廣、佐々木健介)。試合後、武藤は言った。「(三沢光晴も)もしかしたら俺の応援をしていた」こちらが、付記の括弧を外した言葉としても大きく報道。感傷的に感じられる一方で、冒頭の棚橋戦への言葉宜しく、一種のドラマにノアの始祖が使われたようで、特に近年のノアのファンにとっては、釈然としない部分もあるかも知れない。

 今回の当欄は、この、武藤と三沢光晴の間にあったヒストリーをまとめてみたい。

80年代は、まるで結びつかなかった2人。


 もともと、同い年の2人(1962年生まれ)。だが、レスラーとして三沢のデビューが3年も早く、少なくとも1980年代、この2人を結び付けて語る視座はファンの中にもなかったように思う。そもそも三沢は武藤のデビュー時(1984年10月4日)の2ヶ月前に、2代目タイガーマスクに変身(同年8月26日)。マスクマンだったのである。

 つまり、2人が比較されるようになって来るのは、三沢が虎の覆面を脱ぎ、本格的にトップ獲りを宣言した1990年5月14日から。偶然だが、この前月に、武藤も2度目の海外修行から新日本プロレスへ凱旋試合(4月27日)。こちらも、それこそ本格的に日本に定着することになり、ひいては2人の対戦が、ファンや、時にはメディアによる原稿内でも夢想されることにもなっていった。当時、既に他団体時代が始まりつつあったが、それでも、メジャー2団体と言えば、新日本と全日本。これは変わらなかった。そして、天才肌とされる、ファイトスタイル。後年、天龍源一郎が、「武藤は上手くて、三沢は上手」という至言をなしたことがあるが、あえて並び立てたこの評価だけでも、2人が、他のトップ陣からも一目置かれる素養を持つ存在であることを示していたように、私見では思う。

 さて、互いが相手を話題にしたのは、実は三沢から。以前の当欄でも触れたが、1992年8月、三沢が三冠王座を初奪取した直後に出た某スポーツ紙に三沢の発言として、以下の記事が。「新日本の武藤とやるしかない。どんな奴でも叩きのめすのが、王者の責務だ」。ところが、この記事に三沢が大激怒。「あんなこと、一言も言ってない!武藤選手にも失礼。その夜は悔しくて眠れなかった」結局、その記者と絶縁したのは、その際も書かせて頂いたが、当時の全日本プロレスが完全鎖国状態であったのはもとより、どちらかと言えば、不言実行の趣のある三沢らしい配慮も感じられた。よって、武藤側からも、三沢の名前は出ず。

 流れが変わったのは1999年5月1日。武藤が新日本プロレス・徳山市総合スポーツセンター大会の試合後、突然、こう発言したのだ。「三沢、勝ってくれよ」三沢は翌5月2日、三冠王座奪回をかけて、全日本プロレスの東京ドーム大会で、王者ベイダーに挑戦することになっていた。

1999年5月、突然、武藤がエール!


 背景には全日本プロレス側の変化があった。同年1月にジャイアント馬場が急逝。三沢光晴を新社長とする機運が高まりつつあった(※5月7日に社長に就任)。実際、この徳山大会の際、武藤には以下の発言も。「全日本プロレスに、協力出来ることがあれば、したい」さらには、「(三沢とは)お互い、地方から裸一貫で出て来たんだし」武藤は山梨県生まれだが、三沢は埼玉県育ちかつ、高校時代は栃木でアマレスに専心。こちらはあまり地方出身とは言えないような……。逆に言えば、自分と三沢をどうしても結び付けたい、武藤からの思慕のようなものが感じられた。

 プラス、武藤自身がこの時、IWGPヘビー級王座を保持。三沢がベイダーと闘う翌日、武藤は難敵・天龍源一郎相手の防衛戦を控えていた。結果、三沢は三冠奪回に成功。武藤もIWGP王座を防衛し、試合後、こう言った。「勝利の先に、三沢や川田(利明)を見たよ」全日本プロレス育ちの天龍を退けた上でのこの言葉に、武藤のセンスが感じられた。

 そして、全日本プロレス社長になった三沢からも、大胆な発言が。往年のプロレス・バラエティー『リングの魂』(テレビ朝日)出演時のことであった。

「(武藤は)人間的に魅力ある。やってみたいと思う」(1999年5月20日収録。放送は5月22日)

武藤&三沢vs永田&秋山案も!


 次に互いを話題にしたのは、2001年の10月。同月8日の新日本・プロレス東京ドーム大会のメインで、馳浩と組み、永田裕志、秋山準(ノア)と戦うことになった武藤は、戦前会見で永田から、「ターゲットは武藤1人!」と言われると、「ん?ゴメン、聞いてなかった」。さらにはこのカードが濃厚とされた同年8月11日には、こんなコメントも。「俺、本当は三沢とやりたいんだよ。でも、それ言うと永田と秋山に失礼だから」(言っているが)。前年、三沢は全日本を退団し、ノアを設立。いわば、自らの団体であり、交流も格段とし易くなっていた。

 事実、東京ドームでのタッグマッチで永田サイドが勝利すると、武藤は試合後、発言。「今度は三沢と組んで、永田、秋山とやりたい」すると、三沢もこれに即座に呼応。決戦2日後のノア・上越市厚生南会館大会での試合後、語った。「試合は(ゴールデン中継の)テレビで観てました。武藤&三沢vs永田&秋山?俺もそのカードなら、やるんじゃなくて観たいくらい(笑)。(武藤には)興味はありますよ。自分で自分を天才というくらいだから(笑)」加えて、こう締めた。「いずれ、闘う運命にあるんじゃないの」翌日、武藤は答えた。「正直、嬉しい」そして、夢は実現に向って加速する。この3ヵ月後に、武藤は全日本プロレスに移籍。同2002年9月には、同団体社長となり、こちらも一国一城の主となったのだ。

 2003年12月19日には、ノアの翌年7月の東京ドーム進出を記念したテレビの特番収録で、三沢が発言。「ファンの期待もあるし、武藤とやってもいい」。そして同東京ドーム大会の2ヶ月前の5月には、武藤が自ら「東京ドームでの三沢社長の相手に、立候補させて頂きます」と宣言(5月21日・全日本プロレス・富岡町総合体育館)。実は後にこの時の交渉について、渕正信が内実を明るみに。「こっちが希望したみたいになってるけど、現実は違うからね。向こう(ノア)から、出てほしいと言ってきたんだから」(渕)。しかし、それをおくびにも出さずに、自らの出陣を語る武藤に、どうしようもない三沢戦への思いが感じられた。

 実は2人は、三沢が全日本プロレスの社長に就任した直後、既に対面していた。

三沢との対面に、武藤、上気!


 1999年5月13日、銀座PICにおける『第3回プロレス写真記者クラブ写真展』のオープニングセレモニーにて、2人がゲスト出演。公の場では、初めて顏を合わせた。もちろん先述のように、全日本プロレスの三沢が、他団体のトップどころと会えるのは、団体の体制が変わったから。それを早くも取り入れた写真記者クラブも流石だった。

 武藤は、最初から違っていた。朴訥、かつ自由人のイメージがある武藤だが、なんと片手に花束を携えて現れたのだ。そして三沢を認めると駆け寄り、「社長就任、おめでとうございます!」そこから、キャリア的に3年後輩になる武藤、もっと言えば、自分以外の他のレスラーを(盟友である橋本や蝶野ですら)、それほど褒めることがない武藤が発したのは、三沢への憧れの言葉の数々だった。「勝手かも知れないけど、俺、(プロレス界での)ライバルはこの人だって、ずっと決めてきたんです」「テレビドラマであるじゃないですか。親が勝手に許嫁と決めて、でも、会ったことはない。そんな気分。見たことがないのに、勝手に俺が恋しちゃってた。今日は恋人に会えて、嬉しいです、ハイ」半ば一方的に思いをぶつける武藤に対し、ようやく返答の時間が与えられた三沢は一言。「いやあ……照れますね(苦笑)」「俺、オカマじゃないんですけどね(笑)」(武藤)。三沢がこの7日後、「人間的に魅力ある」と、武藤を評したのは、前出の通りである。

 2人は2004年7月10日、前述の東京ドーム大会でタッグ対決(〇三沢&小川良成vs武藤&太陽ケア●)。試合後、武藤はコメントルームで、三沢向けに言った。「夢の続き、見ませんか?」3ヵ月後の2004年10月31日、今度は全日本プロレスの両国国技館大会で、武藤&三沢のタッグが実現(vs馳浩&佐々木健介)。好連携の末、武藤が馳を下したこの試合は、『武藤敬司デビュー20周年記念スペシャルマッチ』でもあった。試合後の武藤は、「もともと組みたかったから……(この日に組めて)感無量です」三沢は三沢で、戦前の会見で、こう言っていた。「(2人が、)組むなら、凄いチームと言われるようにしたいし、一夜限りの関係で終わらせたくない。両国大会の後も、誰か、対戦相手に、名乗りをあげてくれると嬉しいんだけど(笑)」(9月30日・ノア事務所)

 それから5年後の6月15日、武藤は新聞社の取材にこう答えた。「夢の戦いはどうするんだよ。一騎打ちはどうすんだって……」

 三沢はこの2日前、リング禍により、急逝していた。

幻に終わった一騎打ちの結末。


 三沢の永眠翌日、多数のメディアが武藤の携帯を鳴らしたが、武藤は出なかった。自身のブログには一言。「驚きと深い悲しみをおさえることができません」もう一夜明けた取材で、前掲の言葉を語り、言った。

「いつも一騎打ちを夢想してた。場所は東京ドームで、メイン。結果は60分ドロー。みんながハッピーになってくれるから」

 前日、つまり、三沢の逝去翌日は何をしていたかは語らなかったが、後で側近が教えてくくれた。ジムに籠り、ただただ猛練習をしていたのだという。

 3ヵ月後の三沢追悼興行に、武藤は参戦(9月27日・日本武道館。〇小橋&高山vs武藤&田上●)。試合後、語った。「魂は引き継いでいきたい」。この日、武藤があつらえたガウンは、84個の緑のジュエルストーンを配したエメラルド仕様。関係者に聞き、そでは三沢が最後に来たガウンの、毛皮は2代目タイガーマスクのヒゲの素材を使ったという。

 潮崎に勝利後、武藤は言った。「俺が弱かったら、永遠の恋人と言われた三沢社長も弱かったってなるからな」

 次の挑戦者に名乗りを挙げたのは、その三沢に憧れノア入りした清宮海斗。三沢とは手合わせすらかなわなかった清宮が、同時代を生きたそのライバル、武藤と、どんな戦い模様を見せるか、その実現を楽しみにしたい。世代を繋ぐ、熱情のドラマに期待したい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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