2020/6/29 8:46

えっ?家族にグレイシーが!実はあの超有名夫婦の大家!幻に終わった全日本参戦。引退!ジ・アンダーテイカー特集!

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4.7

自らのドキュメンタリーで引退を吐露。


『棚橋弘至vsクリス・ジェリコ』と言えば、今年の1月5日、新日本プロレスの東京ドーム大会で大観衆を沸かせた目玉カード。2017年11月以降の新日本登場(映像のみ含む)より、内藤やオカダを相手にして来たジェリコだったが、3人に比べてのキャリアの近さや、その長きに渡るカリスマ度からすれば、この棚橋弘至戦こそ、待望の一戦だったのではないか?事実、ジェリコ自身、試合後、こう語っている。

「(オカダや内藤に比べて)棚橋は機動力や可動域では劣っているかもしれないが、彼の持つファンとのつながりを感じられて素晴らしかった。WWEでアンダーテイカーと試合した時と同じ気分さ。あの時も10年懸かって実現した」

 レジェンドを引き合いに出して語られたその評価は、棚橋に対する最大級の賛辞であった。

 そんな、ファンのみならず、レスラー達からも尊敬を集めていたジ・アンダーテイカーが、遂に引退する。6月20日(現地時間)にWWEネットワークで配信中の自身のドキュメンタリーの最終話が公開。そのインタビューの中で「リングに戻る意欲がない」と現役引退を表明したのである。

 全米のメディアがこれを報じたのは勿論、日本でもTwitterのトレンドワードに『アンダーテイカー』の文字が。それはとりもなおさず、ほぼWWEのみを戦場としてきたアンダーテイカーが、文字通り海を越える存在感を持っていたことを物語る。

 今回の当欄は、『引退 ジ・アンダーテイカー』としてお送りしたい。

可能性を感じさせた若手時代


 そもそも、アンダーテイカーとしてWWE(※2002年5月まではWWFだが、本欄ではWWEで統一)デビューするまでは、数々のリングネームを使い分けて来た選手であった。その名も、テキサス・レッド(※同名の有名レスラーあり)、マスター・オブ・ペイン、ザ・パニッシャー等など。1990年3月には、パニッシャー・ダイス・モーガンとして新日本プロレスに初来日している。よって、アンダーテイカー前史として当時を振り返る報道には、『巨体を生かしたパワーレスラーという以外に特徴はなく、どこにでもいる普通のレスラー』(『日刊スポーツ』1993年2月18日付)と、その差異を強調するものが多いが、どうしてどうして。私見ながら筆者の目にはかなりの凄玉に映った。そもそも1987年4月のプロレスラー・デビュー時の相手が、ブルーザー・ブロディである(※この情報は、初来日時にも専門誌にも掲載。なお、デビューについては1984年説もあるが、本人は1965年生まれであり、テキサス工科大学卒業後のデビューなので、これは間違い)。そして驚いたのが、当時からトップロープ上を歩くというパフォーマンスを見せていたこと。数歩のことではあるが、203cmの巨体である。新崎人生が“拝み渡り”を初披露するのが1993年のことであり、平成でヘビー級の人間としては、こちらも先駆者。新日本への来日はこの1回に終わったが、この際、IWGPタッグ王座にも挑戦しているし、あの北尾光司とも戦っている。なお、こちらを発掘したのは新日本プロレスのブッカーでもあった、大剛鉄之助さん。クラッシャー・バンバン・ビガロを初来日させたのも同氏であり、トレーナーとして、天山、小島、吉江豊らを鍛え上げ、凱旋帰国させたことでも知られる。振り返れば、怪物性溢れるレスラーが好みだったのかも知れない。

 このまま日本に定着するかと思われたが、1990年11月にWWE入り。実はそもそも、アンダーテイカーというキャラクターのアイデア自体が彼自身のもの。本人がもともとこういうレスラーになりたがっていた。ところが、それまで戦って来たCWA、NWA、独立団体にそのアイデアを提案しても、返ってくる答えは一つ。「オカルト映画のブームは70年代に終わった。プロレスは明るくなくてはダメだ。それは暗すぎる」。しかし、WWEに誘われ、自らのアイデアをピンス・マクマホン・ジュニアに話したところ、ジュニアは快諾。アンダーテイカーも喜びとともに契約に合意したのだった。つまり、現在のWWEのように、上からキャラクターを付与されたのではない。それ自体に極めて崇高な価値を、今では見いだせもしよう。

全日本プロレス参戦の噂も


 アンダーテイカーとしての初来日は、1992年3月18日の新潟市体育館(石川孝志にフォール勝ち)。団体はメガネスーパーが資金供与してたSWSであり、豪華な演出が許されるだけあって、骨壺を持ったマネージャー、ポール・ベアラーの先導はもちろん、場内を本物のコウモリが飛び回る演出も!WOWOWでの録画中継では今いちこれが伝わりにくいのが残念だったのだが、あのコウモリ、あの後、どうしたのだろう?4日後には後楽園ホールでキング・ハクにフォール勝ち。この際、パイルドライバーを3連発で食ったが、得意のムクリとした“蘇生”を見せており、会場に詰め掛けたマニア達を狂喜させた。

 天龍源一郎率いるWARにも来日(1992年9月15日)。その後、WWE主催による、4大都市を回る『マニアツアー』でも、こちらはエース格として来日。天龍とのタッグ結成などもあったが、白眉となったのが、5月9日の新崎人生戦(大阪城ホール)。注目の一番に、人生はこの日、初めて、体全体に文字を書き付けた“耳なし芳一スタイル”(※当時の東京スポーツより)で登場。マネージャーのミスター・トヨタが、アンダーテイカーの生首を模した模型を出し挑発するなど、大盛り上がり。試合はアンダーテイカーがツームストンパイルドライバー1発で圧勝したが、人生は新リングネーム『ハクシ(白使)』として即座にWWEと契約する躍進ともなった(※実際のリング登場は翌年)。1997年10月には、そのハクシとの一騎打ちを、みちのくプロレスの両国国技館大会で披露している。

 実は翌年、全日本プロレスに来日する話もあった。5月に団体初の東京ドーム大会を控えている全日本が、WWEに選手の貸し出しを打診。「ベイダーかアンダーテイカーかの2人に絞られた」とジャイアント馬場が明言している(1998年3月4日)。結局、東京ドーム大会にはベイダーが来日。ハンセンと組んで、小橋&ジョニー・エース組と戦ったが(※小橋がハンセンにフォール勝ち)、もしアンダーテイカーが来ていたら、どういったカードになったのか、淡い夢想が残る。同日のカードに、馬場&ハヤブサ&志賀賢太郎vs新崎人生&キマラ&泉田純があり、人生と馬場の絡みが注目されていた。ハンセンや小橋と絡ませてアンダーテイカーの世界観が活かせたり貫けたりするかは甚だ疑問だし、ひょっとしたら、人生とアンダーテイカーのタッグ結成や、馬場との対戦などもあり得たかも知れない。ところがである。このWWEからの選手貸し出しについて、馬場は当時、こう付言したのである。「金額が法外なんだよ。他にも色々先方の言うことを聞かなきゃいけないことがあるし。(WWE勢は)使わないかもしれない」

 そう、今更だが、アンダーテイカーは既に、WWEの顔と言っていい超大物になっており、そして、そのキャラクターも透徹されていた。

貫いたキャラクターレスラーとしての美学


 有名に過ぎるのが、1年に一度おこなわれる、『レッスルマニア』での21連勝。1991年より2013年までの記録で、2014年、ブロック・レスナーに敗れてストップも、その間、リック・フレアーにも勝っていれば、ショーン・マイケルズを引退に追い込んでいたりもする。WWEのスーパースターたちは、先日、中邑真輔が『年収5憶円』を喧伝され、本人がそれを否定していたが、あけすけに言えば、アメリカの長者番付に載れるほどの高給取り。30年間に渡りトップであり続けたアンダーテイカーが、どれほどのものかというのは、あのブラッド・ピット&アンジェリーナ・ジョリー夫妻の家の大家を務めていたという事実だけで十分だろう(※現在は離婚)。テキサス州にあるその家は、もともとアンダーテイカー自身が住むためのものだったため、寝室がかなり大きく作られ、また、当然(?)トレーニングジムも完備。離れ屋にはリングを置けるスペースがあるというから驚きだ。

 キャラクターの一貫ぶりに関しては、WWEにおいては大切なこととは言え、そもそもアンダーテイカーは自身でこのキャラを望み、そして成功したため、特にこの美学を堅守。2008年2月、ブロック・レスナーがUFCに初挑戦した際を観戦した際じゃ、あの、全身黒ずくめの衣装で客席に。同じくストーンコールドがビール片手に観戦していたのには笑ってしまったが、そのプロ中のプロぶりには、やはり感服せざるをえない。

 なお、アンダーテイカーは、ファンならご存知だろうが、大の総合格闘技好き。プロレス入り前のスポーツ歴は、バスケットボールとフットボールで、この2つで奨学金を貰い前出のテキサス工科大学に進学しているため、その嗜好はプロレス入りしてからと思われるが、よって、使う技も、こちらからインスパイアされたものが少なくなかった。キムラロックに三角絞めはもちろん、2008年2月には、フットチョーク(ゴゴプラッタ)なども披露し、フィニッシュに。対戦相手のビッグ・ダディが10回以上タップした上に、口から血を吐くおまけつき。同月のレスナーのUFC挑戦を意識したものと思われるが、数か月後、WWEでは同技を禁止技に指定。ただのキャラクターレスラーでないアンダーテイカーの強さも、この逸話で十分だろう。因みに、2005年5月にこのアンダーテイカー、二女を授かったのだが、命名がなんと、『グレイシー』ちゃん。奇しくも、というわけでなく、完全にあの一族を意識したものだろう。

 アンダーテイカーに変身してから30年。2010年2月21日に行われたWWE・PPV『エリミネーション・チェンバー』では、機器の故障により、入場時、自らの真下から、炎が噴射されるアクシデントも。後からのWWEの発表によれば、胸に火傷を負ったという。しかし、番組中、異変を感じさせたのは、少し小走りになり、コートをすぐ脱いだ点だけで、試合は普通に敢行。表情も変えず、しかも金網マッチだったが好勝負を演じていた。そこに、アンダーテイカーの、自身への矜持と、美学を見るのである。

 WWEファンにとっては、悲しく寂しい勇退の言明だろうが、誕生以降、数々の夢や興奮やドラマを味あわせてくれたことに感謝したい、今はその決め台詞通り、『Rest in peace』の言葉を送りたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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