2020/3/30 10:17

小指が無くとも最強!あのレスラーの夫も会心のヘルプ!頑張れ谷津嘉章!身体的ハンデを克服したレスラー特集!

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小指が無くとも最強!あのレスラーの夫も会心のヘルプ!頑張れ谷津嘉章!身体的ハンデを克服したレスラー特集!
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6月7日、谷津嘉章、義足で復帰!


 谷津嘉章さんに、初めて個人インタビューをしたのは8年前ほどになる。もちろんそれより先に囲み取材の類では数え切れぬほど会って来たわけだが、妙に明るい人という印象があった。例えば引退ツアー(2011年11月)の日程を先んじて発表する会見の際、なぜか報道陣は昼の焼肉屋に集められたのだが(谷津さん曰く、「お世話になったので、ランチでもしながら」とのことだった)、「かつてお世話になった長州さんを(引退ツアーに)呼びたい」と言う。なので、朗報が入るよう、長州さんの写真と、親指を立てるポーズをしてマスコミ用の撮影をおこなったのだが、谷津さんは一言。「これ、親指を下に向けたらどうなるかなあ?(笑)」一種のブラックジョークだったが、記者陣には大受けだった。

 さて、この個人インタビューの際、筆者の名刺を見た谷津さんは、こう返した。「いやぁ、食ってけますか?(笑)」まだ、ブシロードによるプロレス復興ブームも起きてない時期。『プロレス・ライター』という肩書に突っ込んだのだった。「何とも(笑)」と筆者が返すと、「俺、高田馬場でやってたホルモン焼き屋が潰れちゃってね。今、プー太郎なんですよ(笑)」。その後も、同席した、新たな事務所を構えたばかりのプロレス関係者に、「雇って貰おうかな~?(笑)」何とも、屈託なく、明るかった。その程度の荒波は過去、何度も乗り越えて来たという、どこかしらの余裕が感じられた。

 昨年6月、右足下を切断した谷津。“義足レスラー”として、今夏の東京五輪の聖火ランナーを務める予定だった谷津。残念ながら大会は来年へと延期になったが、その谷津から、まさに朗報が発せられた。DDTのビッグマッチ、6月7日のさいたまスーパーアリーナ大会での復帰が発表されたのだ。復帰会見(3月18日)で曰く、「(義足でのリハビリを)やればやるほど、鍛えれば鍛えるほど、もっともっととわがままな気持ち、冒険心が生まれた」なんとも頼もしいではないか。

 今回の当欄は、そんな谷津へのエールを含め、身体的ハンデを克服したレスラー特集をお送りしたい。

あの“神様”にも、身体的ハンデが。


「豊臣秀吉の右手には、指が6本あった」。歴史書の類に、稀に出て来る記述である。当時のいくつかの歴史的文献にこの叙述があり、今では比較的事実として知られているが(先天性の多指症というもので、親指が2本あったとか)、こと、プロレスラーにおいては、やはり、怪我や事故から、身体的ハンデを負う場合が多いようだ。

 今でもそれほど知られてないが、例えば“プロレスの神様”の異名で知られるカール・ゴッチは、左手の小指のほぼ全てを欠落していた。理由については、「プロレス入りする前、父の薪割りを手伝っていて、斧が小指に誤爆した」や、「工場での作業中に、謝って切断した」等、さまざまに聞くので特定は出来ないが、これがどれほどスポーツの世界において不利かは、如実に知れるところだろう。四肢を密着させて相手をコントロールさせて行くゴッチのレスリングスタイルならなおさらだ。そのハンデを乗り越え、というより、ほとんど観る人に気付かせず、無二の実力を誇ったゴッチ。まさに神格化していい先人だった。

 ゴッチと同じく、世界での屈指の実力者とされたビル・ロビンソン。その正統派のテクニシャンぶりは、人気漫画『キン肉マン』のロビンマスクのモデルになったという事実だけでも物語ってくれるが、その右目は義眼だったという説が。13歳のときに友人の投げたブリキの看板が目をかすめ眼球を損傷と、自伝でも語っており、少なくとも、見えなかったのは確かなようだ。そして、義眼すらギミックにしたのが、オールドファンには懐かしい、ブレーンバスターの名手、キラー・カール・コックス。右目が義眼だったが、アメリカでは、それを取り出して凶器にして使っていたという情報も。幸い(?)、日本のリングではこれを見たことはないが、当時のレフェリーによると、日本でオフの際、修学旅行などで子供たちが集まっているのを見ると、そちらへ接近。自ら義眼を落とし、子供たちが仰天する姿を楽しんでいたそうである。見た人が今もトラウマになっていなければいいのだが……。

 なお、ここで扱う範疇ではないが、カツラ着用で戦っていたのが、先週の当欄でも出て来たWWE殿堂入りのブルーノ・サンマルチノ。あと、あのアンドレ・ザ・ジャイントのカーリー・ヘアーも、カツラ(今で言うウィッグ)だって、知ってました?個人的には、キラー・カーンさんが、コンタクトレンズを付けて戦っていたという事実が、かなり怖く感じたのだが……。因みに、1990年1月16日の前田日明vs高田延彦戦では、高田の、軽く触れただけの掌底に前田が目を押さえてダウン。苦しみつつ、1分近く試合もストップに。その直後、裏アキレス腱固めで勝利した高田は試合後、「コンタクトがずれたんでしょう」とコメント。そう、あの前田日明もコンタクト着用で戦っていたのである。なお、盟友のシーザー武志は、「前田君が(自らの団体のルールに)顔面パンチOKを出さないのは、自分が目が悪いからじゃないかな?」と、ユニークな分析をしている。

ジャガー横田“夫妻”が救ったレスラーの命


 いささか昭和のレスラーが続いたので、平成以降の選手も。主に関西で活躍するフリーランスの女子プロレスラー、救世忍者乱丸は、左目が義眼の覆面女子レスラー。3歳の時、小児がんで左目を摘出。義眼となったが、不便とは思わず、小学2年から空手に熱中し、高校卒業後には世界大会にも出場した。大学在学中、女子プロレスを観戦。選手がどれだけ技を受けても立ち上がり、観客を熱狂させる姿に共鳴。進むべき道はこれだと、ある団体を受験も、「義眼だから」とシャットアウト。だが、あきらめず、別の団体を目指し、入団を果たした。ところが、同団体では理由もなく顔を竹刀で殴られ、髪は丸刈りに。マスクを希望したが、素顔で試合をさせられることに。「義眼を見せ物にされていると感じ」、自ら退団してしまう。いわば出戻った実家で悶々とした日々を過ごしていると、電話が鳴った。女子プロ界のレジェンドであり、実は個人的には喋ったこともない、ジャガー横田だった。

「あんた、まだプロレス、やりたいでしょう?……片目のない子が女子プロに入ってきたのは知ってた。同じ会場にいた時に観てたよ。あんた、頑張ってたよね」

「お願いします!」

 ジャガーが所属していた吉本女子プロレスから、覆面姿かつ、現在のリングネームで、いわば再デビュー。2005年にはフリーとなり、その後も活躍した。だが、2006年、急性の腎炎に。「治らない。リング復帰は無理」とされるも、またも手を差し伸べたのはジャガー横田、いや、正式に言えば、ジャガー横田夫妻だった。心配し、乱丸を夫妻で見舞いに来た際、病名を聞いた夫の木下博勝氏が、こう言ったのだ、「なんだ、その病気なら治るよ。時間はかかるけど、必ず治る!」木下氏はご存知、現役の医師である。

 結局、2年後にリング復帰。リングに戻った乱丸に、特に中高生ら相手の学校での講演の話が舞い込んで来た。その数はとうに100を超え、乱丸は、障害や病気、いじめを乗り越えてリングに立った自らの歩みを通し、中高生らに夢の大切さを伝えている。

「夢は諦めなければかなう。厳しい試練があってこその夢。挫折しても、それを乗り越えて、夢に挑戦し続けて」(乱丸)

 なお、乱丸は、講演の際は、「この方が伝わりやすいから」とマスクを脱ぎ、素顔で語りかけている。

武藤も感動!義足レスラー!


 そして、谷津に先立つ“義足レスラー”と言えば、元WWE戦士、ザック・ゴ―ウェンだろう(※他にも、義足で戦っていたレスラーは、ケリー・フォン・エリックがいるが、こちらは急逝までその事実は明かされなかった)。8歳時に骨肉腫(骨原性肉腫)にかかり、左足を切断。それでもハルク・ホーガン、そしてビデオで見た全日本の“四天王プロレス”に憧れレスラーを目指し、2003年には念願のWWEデビュー。2004年の4月には大日本プロレスにも来日。そして2007年には、待望の全日本プロレス来日を果たした。初試合は9月16日の後楽園ホール。両足で入場し、ゴング前、リング中央に外した義足を置いたシーンは忘れられない。カードは武藤、太陽ケアと組み、諏訪魔、TARU、YASSHIの、お馴染みVM軍との対戦。諏訪魔に、残った右足を逆片エビ固めにとらえられるシーンには、思わず泣きだす女性ファンも。しかし、浴びせ蹴り等、躍動感たつぷりのファイトを見せ、最後は得意のムーンサルトでYASSHIをフォール。武藤は、「オレの(慢性的な)ヒザの痛みが小さく思えた。勇気をもらった」は絶賛した。プラス、こうも言い残している。「あきらめないというのがプロレスの原点。(ゴ―ウェンは)人生そのものがプロレス」

 来たる谷津の復帰戦でも、そんなプロレスの原点を堪能出来そうだ。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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