2019/1/20 10:48

幻の新日本プロレス入り計画!玄関までウンテイで移動?25周年記念試合開催!本田多聞特集!

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幻の新日本プロレス入り計画!玄関までウンテイで移動?25周年記念試合開催!本田多聞特集!
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本田&井上雅央vs潮崎豪&芦野祥太郎で激突!


 さる1月15日、テレビ朝日『報道ステーション』内で、本田圭佑(32)と錦織圭(29)の対談が実現した。プロテニスで世界ランキング4位にもなった錦織が、本田に対し、こう言う。「結果を出している。凄い」。果てなきリスペクトの念が見えた瞬間だったが、その本田は、既にサッカーに専心していた小学校3年生の時,自分の大伯父に対し、こう聞いている。

「どうしたら多聞さんのように、(アマレスで)オリンピックや国際大会で日本代表になれるのか?」

 そう、本田圭佑の子供時代の憧れこそ、プロレスラー、本田多聞。実は圭佑の父と多聞が従兄弟にあたる親戚同士であった。なお、この時、圭佑が質問した大伯父が、多聞の父、本田大三郎さん。1964年の東京五輪でカヌーの日本代表を務めた、こちらもスポーツ・エリートは、圭佑にこう教えたという。「毎日、どんな練習をしたか日誌につけ、毎晩、それを見返しなさい」。そうしてつけ続けた“本田圭佑ノート”は、現在では100冊を超え、昨今は、そのコンセプトを活かし、『夢ノート』として、商品化もされている。もちろん、この成功モデルの先達が多聞であることは言うまでもない。全日本プロレスでデビュー後、アジアタッグ王座を奪取。NOAHに移籍後は小橋建太の正パートナーとしても一時代を築いたのは、読者もよくご存じだろう。

 その本田多聞の、デビュー25周年記念試合がおこなわれることが明らかになった(2月8日・横浜ラジアントホール。川田利明プロデュース興行『Holy War〜vol.4〜』)。実際のデビューは1993年10月なため、遅れて来たメモリアルとはなるが、喜ばしさに変わりはないだろう。

 今回の当欄はこれを祝し、この本田多聞の知られざるヒストリーを綴りたい。

幻の新日本プロレス入り計画!


 その英才教育は、まさに0歳から。前出の父、大三郎さんが、多聞をオリンピック級の選手に育てるため、家族に、こんなお達しを出す。「家族全員、家では左利きとする」「右手を使ってる人がいたら、各自が注意」。アマレスにおいてサウスポーの選手は少なく、それだけで相手が対処に困惑し、優位に働くという算段からだった。さらに多聞が成長すると、家の庭から玄関までウンテイ(※運動場にある、アレです)を設置し、そちらでの移動を厳命(※歩くのは禁止)。中学校への登校は、タイヤを引きながらという、超スパルタ教育!なにせ大三郎さん自体、元はハンドボールの選手として高名に。ところが、東京五輪でハンドボールが正式種目に選ばれないと、すぐさまカヌーの選手へと移行。挙句、五輪出場を果たすわけだから、その表彰台への思いは、とてつもないものがあった。

 結果、多聞はアマレス全日本選手権8度優勝、オリンピックにはロス、ソウル、バルセロナの3度出場と、申し分ない戦績を収め、ついた異名は「アマレスの神様」。その実、最初のオリンピック出場後の1984年の秋、日本大学卒業を控えた多聞に、プロレス入りの話があった。勧誘した団体は何と、新日本プロレス。当時の新日本は、長州力ら13選手が離脱。時のロス五輪で多聞は5位に入賞しただけに、陣容が手薄かつ、人気選手を失った新日本にとっては、喉から手が出るほど欲しい人材だったのだろう。

 ところが多聞はこれを固辞。やはり表彰台に上りたいという一心で、その後もオリンピックを目指した。余談だが、2003年11月、新日本の永田裕志&棚橋弘至に獲られたGHCタッグ王座の奪回に挑む際は、チームリーダーの永田を指して、こんな挑発をほどこしている。

「私が、本物の敬礼をお見せします」

 大学卒業後、就職した先が、自衛隊だったのだ。

なぜ、全日本プロレス入りしたのか?


 1988年のソウル、1992年のバルセロナ五輪を経て、1993年、全日本プロレス入り。実のところ、バルセロナが終わったらレスリングを辞め、指導者への道の辞令が自衛隊から下ることになっていた。だが、多聞自身、まだ闘いを辞めたくはなく、29歳にしてプロの道へ。遠因には、1990年代ならではのプロレスの興行人気と、その幅の広さ、わけても、格闘スタイルへの許容があった。なにせ、同い年かつ、アマレス期からの知己、ゲーリー・オブライトはUWFインターナショナルでエース外人に。1992年10月にはソウル五輪のアマレス金メダリスト、ゴビリシビリ・ダビドが藤原組の東京ドーム大会で、鈴木みのると対戦していた。

 とはいえ、なぜ、アマレスの下地が活かせそうなこういった“U系”団体でなく、全日本プロレスを選んだのか。理由は明確だった。「私のアマレスの師匠と、ジャンボ鶴田さんのアマレスの師匠が、一緒だったからです(笑)」事実、1993年5月14日、全日本プロレスの後楽園ホール大会のリング上から入団挨拶をおこなった多聞は、コメントルームで、「プロとしての目標は、ジャンボ鶴田さんです」と明言している。

 以降、デビューから数年は、ヘッドバッドなどを多用し、アマレス色を消そうとした多聞だったが、やはり頭角を現したのは、その生来の技術を活かしてから。2001年9月にGHCヘビー級王者として挑戦を退けた秋山準は、「僕らのアマレス時代は、本田多聞と言ったらビッグネームで、前を通るだけで、“おぉ~”って感じでしたから。その時の多聞選手に戻ってたんじゃないかな」と語り、同じく2003年4月に、今度は小橋の持つ同王座に挑戦した際は、リングサイドで蝶野正洋が観戦。翌月の新日本の東京ドーム大会で小橋の一騎打ちを控えていたためだが、「本田選手の戦い方から、実に良いヒントをもらった」と高評(多聞の持ち技、タモンズ・シューターと、自らのフィニッシュ・ムーブ、STFに類似点を見たのだと思われる)。この時のGHC戦の激闘を経て、小橋と多聞は正式にタッグを結成するのだが、その初陣では、敵となった高山善廣が以下のコメントを残した。

「GHCチャンピオンの小橋は、(当時)NWF王座とIWGP王座を獲った俺が怖いから、本田多聞という番犬を雇った。体制側のヒーローというのは、いつも上手いこと番犬を雇うから(笑)」(2003年5月9日・後楽園ホール)

 いずれも多聞の実力に対する賛嘆と畏怖に溢れているが、実は多聞自身のプロレスに対するメモリーは、他のところにもあったという。

ファンへの思いが生んだ、鶴田との手合わせ。


 それは1995年11月29日の大阪府立体育会館でのこと。この日、デビュー2年目の多聞は、ジャイアント馬場と組んで、当時、世界タッグ王座を保持していた川田&田上と激突。本田自身が惜敗したが、試合後、馬場にこう言われたという。

「今日の声援は、お前に向けられたものなんだよ。そういう風に、毎日頑張って行くんだ」

 いわゆる、四天王と言われた三沢、川田、田上、小橋の面々が、なぜあんなに頑張れるのか、この時、本田は得心したという。

 大阪の同会場では、この10か月前の1月19日、憧れの鶴田とも6人タッグで対戦。初めての手合わせだったが、もともと予定されていたカードではなかった。しかし、この2日前、関西一円に阪神大震災が勃発。既にセミリタイア状態だった鶴田が、「どうしても」と懇願し、自ら参戦したものだった。もちろん会場は大歓声に包まれた。

 25周年記念試合当日は、かつて知ったる潮崎とも相まみえる多聞。「潮崎は会うたびに腕が太くなってるので、ちょっとチョップは私を狙わないで、って思いますね(笑)」と会見では語ったが、忘れもしない2007年12月2日の、小橋の癌からの復帰戦。第4試合に出場した多聞は、そのシリーズ、休みがちだったにも関わらず、胸を真っ赤に腫らしていた。復活に向けての小橋の練習に日夜付き合い、そのチョップの練習台として、既に何十発も胸で受け止めていたのだ。そして迎えた実戦での小橋のチョップに、ファンが狂喜したのは言うまでもない。

 多聞が体に刻んだ歴史は、まさに往時の全日本プロレス並びにNOAHの表象。25周年を、感慨とともに見守りたい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

コメント

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  • 武道館のメインでGHCタッグ奪った試合は忘れられません。当時のノアはストーリー展開があって、本田選手が体張って全てをかけてシリーズの最終戦のメインイベントへ駆け込んできたのをファンも分かっての勝利。会場のボルテージも最高潮。アマレスにないタッグこそプロレスの頂点と語る本田選手の勝利に涙しました。

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    (2019/1/26 12:03)
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