2018/11/27 7:25

プロとしての忍耐は、その名前から!? 中学のテストは全て白紙!? 暴行事件の対応で注目!長与千種の人間力に迫る!

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プロとしての忍耐は、その名前から!? 中学のテストは全て白紙!? 暴行事件の対応で注目!長与千種の人間力に迫る!
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夫婦喧嘩の仲裁に入り暴行禍も、被害届は出さず。


 僭越ながら、それなりにプロレスラーや格闘家の方々のインタビュー取材をさせて頂いて来た手前、“オーラがある”という表現を信じている。一部の方からは、本当にそれが可視化して伝わる錯覚に陥るのだ。中でも、(もちろん筆者の個人的な見解ではあるが、)強烈なオーラを発する方が2人いた。1人は今年、引退された、格闘家の小川直也さん。そして、もう1人は、2000年代前半、横浜駅から車で20数分の、畑の中にいらっしゃった。近くに木造の道場があり、畑では野菜を育て、日々の食事の足しにしていた。道場にいた選手や新弟子たちの礼儀正しさは、少々感動を覚えるほどで、それを素直に褒めると、彼女は言った。「『おはよう』『こんにちは』『こんばんは』の使い分けから入ったんですよ。ホラッ、こういう業界って、なんでも、『おはようございます』って挨拶するでしょう?それがそもそも人としておかしくないかって」当時、女子プロレス団体『GAEA JAPAN』を主宰していた長与千種さんの言葉だった。強烈なオーラを発していた。

 さる19日、北海道の地で夫婦喧嘩の仲裁に入った長与さんの対応が話題となっている。曰く「プロである以上、こちらから手出ししてはダメだと思った」というものだが、まさにプロとしては当然の心構えとはいえ、当のプロレスラーによる暴行事件もないわけではない昨今、その姿勢を改めて讃する声は多い。鋼の心がなければ、出来ないことでもあろう。

 そこで、今回の当欄は、この長与千種の人間力に着目。かような強きハートと、その矜持がどこから生まれたのかを、解明してみた。

「ビューティー・ペアの歌を聴いて、これくらいなら私でもというのもあった(笑)」(長与)


 1964年、長崎県生まれ。子供の頃は医者になりたかったが、実家は必ずしも裕福とは言えず、なるのに費用もかかりそうだと早々と断念。次に宝塚歌劇団に憧れるが、こちらも、スパンコール等の衣装に金がかかりそうだからと諦めた。折しも、全日本女子プロレスの選手募集の告知を雑誌で発見。『月給10万円』とあるのを見て、夢をこちらに決めたとか。少女時代の千種は、10万円という額の見当がつかず、「それだけあれば、家も車も買えるのでは?」と思い込んでいたという。

 決断すると、後は早く、中学3年生時の答案は、全て白紙で出したという。「下手に(高校への)推薦を受けないため」というから筋金入りだった。

 15歳で全日本女子プロレス入り。言うに及ばずかもだが、地獄の新弟子生活が始まった。先輩たちからの締め付け、及びイジメ。食事は米しか支給されず、道に落ちてる瓶や缶を拾って売り、それでタバスコやバターを買い、味をつけて食べていたとか。そんな生活が嫌になるのも当然で、一度は夜逃げ。だが、東京の交通に詳しくなく、「いつ羽田空港に着くんだろう?」と思って乗っていたのが山の手線だったという逸話も。

 驚くべきことに、プロデビューし、ギャラを貰うようになっても、この生活は続いていたという。コスチュームやシューズは確かに自前だったが、千種にはそれ以上に、金をかけたいものがあった。ズバリ、プロレスの研究である。

史上に残る、プロレス研究家!


 出ていた雑誌や新聞は全て購入し、主に写真のところを切り取る。そして、それをファイルするのだ。「ドロップキック」「ブレーンバスター」「バックドロップ」というように技ごとに。そして、自分にはどんな技が向いており、また、角度によってどう見えるかを分析した。当時、高かったプロレスのビデオは月賦で買った。試合の流れの解析はもちろん、マイク・アピールも吟味。どうすれば客に伝わるか、勉強し続けた。もちろんトレーニングは第一に欠かさなかった。

 こんな努力家の選手を、リングの神様が放っておくわけがない。1984年8月、ライオネス飛鳥と「クラッシュギャルズ」を結成すると、一気に人気がブレイク。女子プロレスの黄金期を作り出した。彼女たちの人気がどれほど凄まじかったかは、ブロマイド専門店『マルベル堂』の売上で、1985年の1位に輝いていることだけで十分だろう(因みに、2位が岡田有希子、以下、伊藤麻衣子、本田美奈子、斎藤由貴と続く)。伝説とされるダンプ松本との髪切りマッチ(1985年8月28日)は、当時の女子プロレス中継としては破格の18.1%という高視聴率を獲得している。

 だが、1989年、引退。まだ25歳という時期であり、横浜アリーナに札止めの観衆を集めたことからも、その人気はまだまだ高値安定していただけに、衝撃があった。

 その後、女優としてNHK『朝の連続テレビ小説』に出演するなど、第二の人生は順風満帆。舞台でも主演の話が来た。その役名も『長与千種』という、つかこうへいさん作・演出『リング・リング・リング』。千種を元に、あて書きされた舞台だったが、こちらに出たことが再び人生を変える。つかさんから、「天に向かうヒマワリのような女子(プロレスラー)たちを作れ!それがお前の使命じゃないか?」と発破をかけられ、新団体旗揚げを決意。OGとしてプロレス会場に行くと、「長与さんを観てプロレスを始めました」「憧れなんです。いつかリングで闘ってくれませんか?」と言う後輩たちが、余りに多いことも、復帰を決めた一因だった。そして冒頭にもある『GAEA JAPAN』を設立。だが、その若手育成方法は、地獄の日々を過ごした自身の全日本女子プロレス時代とは、違うものだった。練習が厳しくないわけはないと思うのだが、筆者が道場を訪れた時は、飼われていた犬たちと、若手の選手たちがジャレあっており、殺気だった雰囲気は皆無だった。

 これについて、千種の信条を紐解こう。

『怒るのと叱るのとは違うと思うんですよね』『叱るというのは相手を戒めるためのもの』『怒るというのは自分が腹を立てる延長にあるもの』『それを踏まえてないと人なんか教えられない』『無用な体罰は必要ない』(『DIME』1995年3月2日号より)

 それはまさに、今回の事件で手を出さなかった千種の行動規範にも繋がる。では、この信念を形作らせたのは誰だったのか。それは、1989年、突如の引退を決意させた人物だった。その人物に、千種はこう言われ、トップとしての慢心に気付かされたという。

「最近のお前は、勝ち続けるばかりでつまらん。負けてみんなに揉まれてる時の方が、活き活きとしてたぞ」

 父、長与繁さんの言葉だった。

軍隊経験もある父に厳しく育てられた千種。


 競艇選手の第1期の有名選手であった繁さん。長女には競艇の順位宜しく、一二三(ひふみ)と名付けた。次女である千種の「千」は、当時の競艇の配当金の最高額(千円)から。とはいえ、千種は第二子だっただけに本当は男として生まれて欲しく、厳しく育てた。銭湯も男湯に行かせ、ビー玉やメンコも教え込んだとか。

 そして何より、礼儀を正しく育てた。長与家には、家訓宜しく、以下の3つの決まりがあり、これを朝と晩、唱えるのが日課だったという。

「・人に迷惑をかけない
 ・ウソを言ってはいけない
 ・悪口を言ってはいけない」

 この日課をないがしろにすると、父は時にはベルトで殴ったという。驚いたことに、母のスエ子も同様で、こちらは掃除機の柄で殴ったとか。そういえば、前述のダンプとの髪切りマッチで坊主にされた千種が、試合後、自らの頭にハゲを見つけ、こうコメントしたのが思い出される。

「あっ、あの時、母ちゃんに叩かれて出来た傷が出て来た」

 かように厳しく育てられた千種だが、プロレスラーになるのを止めず、むしろ応援してくれた両親への愛はとてつもなく深かった。女子プロブーム期のギャラは、ダンプと飛鳥が1試合3万5千円。ところが長与は1試合5万5千円だった。人気面の配慮かと思いきや、その時は既に母が子宮ガン、父が網膜剥離を患っており、その治療費に回せるよう、全日本女子プロレス側が配慮したものだったという。

 その父は、長与が引退し、芸能界に入る際、こんな手紙をよこしたという。

「みんなに踏まれなさい。雑草は踏まれて強くなり、そのうち小さくても綺麗な花が咲くんだから」

 千種の名の『種』は、まさにこの雑草の意味から来ているという。今回の行動で千種が咲かせた花の意味は、決して小さくないことだろう。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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