2018/10/16 18:13

そのデビューがスポーツ紙も変えた!? 引退の真の理由とは!? 追悼・“プロレスラー”輪島大士

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そのデビューがスポーツ紙も変えた!? 引退の真の理由とは!? 追悼・“プロレスラー”輪島大士
5.0

享年70で逝去


 9月30日、『RIZIN.13』における注目カード、那須川天心vs堀口恭司が終了した直後のことだ。場内の雰囲気が変わった。妙にざわざわと、ガヤつきはじめたのだ。見ると、大半の客が席を立ち、家路を急ごうとしていたのだった。全13試合あるうち、那須川vs堀口は9試合目だったのだが。

 こちら、実は当日の台風による影響が出たものでもある。帰りの足が心配な来場者達に対応し、そもそもメインだった那須川vs堀口を、第9試合にスライドさせたのだった。帰路につく観客は、もちろん、早く帰らないと交通機関の乱れが心配だという心理だったろう。だが、同時に、「お目当ての試合は観れた」という気持ちの作用も疑いないところだ。

 古い話で恐縮だが、1986年の12月12日、全日本プロレスの日本武道館大会でも、似た光景が見られた。ある試合が終わると、満員だった会場から、約3割の客が帰ってしまったのだった。好天にも関わらずである。必ずしも良いことではないが、それは、同試合にのみ、極めて高い注目が集まっていたことを意味していた。

 カードは、リック・マーテル&トム・ジンクvsジャイアント馬場&輪島大士。元横綱であるレスラー、輪島大士の東都デビュー戦だったのだ。いわば東京での初お披露目試合。この逸話だけで、その注目度がわかろうものだろう。

 その輪島さんが、10月8日、逝かれた。大横綱であることはもちろん、後年はバラエティー・タレントとして活躍したことで、ネットニュースサイト『アサ芸プラス』(10月10日更新分)によれば、その合間のプロレスラー時代の実績紹介が少ないという声もあるようだ。

 今週の当欄は、「プロレスラー・輪島大士」を、真摯に特集したい。

アメリカでのデビュー戦の模様は、毎日新聞に掲載も。


 輪島のプロレス入りに最初の報じられたのは、1986年4月8日の『日刊スポーツ』紙の一面にて。因みに、以降、同社は紙内に『バトル面』を設け、主に輪島を追うこととなる。これが在京の朝刊スポーツ紙でプロレスが取り上げられる嚆矢となった。

 4月13日に、ジャイント馬場同席の元、プロレス入りを正式発表。もちろん一般週刊紙誌を騒がせ、その5日後には馬場、2代目タイガーマスク(三沢光晴)と渡米。現地での特訓に入った。馬場は、自らのアメリカでの試合に輪島を帯同。ミネアポリスの試合では、「スモーレスリング・グランド・チャンピオン」と紹介され、リング上で挨拶をしている。

 デビュー戦は、同年8月7日、カンザス州のカンザスシティ・メモリアルホールにて。馬場をパートナーに、アースクエイク・フェリス&J・R・ホッグと対戦。6分48秒、ホッグを相撲タックル2連発からフォールしている。

 8月30日のデビュー2戦目では、早くも自らのフィニッシュ、ゴールデン・アーム・ボンバーを披露。ラリアットの体勢から一旦反動をつけて押し倒す同技は、後に田上明が改良して『喉輪落とし』として使用するなど、後進に影響を与えたが、最初のゴールデン・アーム・ボンバーは、まさに喉輪を相手の首に炸裂させる形で、早くも元横綱の個性を出して来ていたことに感心した覚えがある。

 アメリカでは7戦をおこない全勝。うち、シングルで5勝という立派過ぎる戦績だったが、その最長の試合タイムでも、5分6秒と、ややスタミナ面に不安は残した。

 しかし、こちらの様子が、当時、毎週土曜日の午後7時から放送されていた『全日本プロレス中継』で9月6日に放映されると、それまで一桁だった視聴率が、ビデオ・リサーチで11.6%、ニールセンで16.0%に上昇。日本でのデビュー戦に、日本テレビからの期待もかかることとなった。

 そして、日本デビュー戦は、同年11月1日、地元である、石川県七尾市総合体育館に決定。当然、土曜日であり、もちろん『全日本プロレス中継』で生中継されることとなった。

1987年3月には、NWA世界ヘビー級王座にも挑戦(vsリック・フレアー)


 ご存じのようにその相手は“狂虎”、タイガー・ジェット・シン。当時の馬場の、「俺と組んで、ザ・ファンクス(ドリー・ファンクJr.、テリー・ファンク)なんかとやったら、『花を持たせようとしている』と思われるのがオチ」という言葉が印象に残る。果たして試合は、選手コール後、ガウンを脱ぐために一瞬背を向けた輪島のシンが急襲。輪島がダウンする中、ゴングとなった。騒然とする場内。だが、輪島はシンに突っ張りの一撃から反撃開始!アリキック、水平チョップ、スピニング・トーホールドし、場内は興奮の坩堝。試合は僅か5分55秒、両者反則裁定となったが、極めてエキサイティングな内容に。その要素は、例えば、退場しようとするシンに向け、馬場が輪島の背中を「行け!」とばかり押したり、天龍がリング上で、「(もう試合は)終わったから」と耳打ちすると、輪島がその天龍を「まだまだだ!」と突き飛ばしたりする光景にも垣間見える。

 だが、メインイベントではなく、番組内に試合全てが入るよう、7時20分ごろから試合が開始。輪島vsシンの後、メインの、長州&谷津vsザ・ファンクスが出だしだけ放映されたのを覚えている。後に輪島嫌いとされた長州が、極めて淡々と試合をしていたように見えたのは、こちらのうがち過ぎか。

 試合後、「気迫は100点」と輪島を評した馬場。「今日は良かったよ」と讃え、なぜか輪島に、トマトを手渡したという。だが、大一番を終えた安堵からか、輪島もこれに感動。実はこの日、旅館にリング用具一式を忘れて会場入りするなど、極度の緊張状態にあった。馬場元子夫人も、「よく頑張ったね」と号泣。注目の視聴率は、ビデオ・リサーチで17.1%、ニールセンで23.5%。破格の数字と言って過言ではなかった。一気に新たな『全日本プロレス』中継の顔になったと言って良かった。長州が提携状態にあった全日本プロレスを離脱するのは、この3ヶ月後のこと。輪島重用に対する反発も原因の一つとされる。

 当面、輪島のライバルはシンに。翌年1月2日の後楽園ホール大会でタッグマッチで対戦した際、贈呈された花束を輪島がそのまま持っていたことがあった。やや珍しく思って観ていると、次の瞬間、その理由がわかった。遅れてリングに上がったシンに、それを投げつけたのだ。コントロール良く直撃し、乱舞する花びら。プロレス的にも非常に映えるシーンであり、日本でのプロ3戦目でありながら、早くも観客の心をわしづかみにし始めた感があった。

 だが、デビューから1年3ヶ月後の1988年2月、輪島は再び、週刊誌を騒がせるこことなる。頚椎損傷で入院し、シリーズを欠場。引退が取り沙汰されることになったのだ。

 怪我の遠因、それは、『天龍同盟』との、熱き激闘にあった。

力士時代の天龍とは、一度だけ対戦(1974年の初場所。寄り切りで勝利)


 長州の離脱を経て、再びリング上に活気を戻そうと、1987年6月、鶴田、輪島に反旗を翻した天龍。その際の「鶴田の背中は見飽きた。輪島のお守りはもう沢山」という言葉は有名だ。阿修羅原をパートナーした天龍との、その頂上対決、「鶴田&輪島vs天龍&原」は、早くも同年7月19日に実現。ここで天龍&原は、輪島をコテンパンにのし、返す刀で鶴田も蹂躙し、場外で戦闘不能に。気がつくと、馬場がいつしか私服姿でセコンドに現れ、輪島に檄を飛ばす死闘に(※輪島が原にリングアウト負け)。以降、天龍同盟の株は格段に上がり、マット界に旋風を巻き起こしたが、反面、輪島への注目は低下。同年10月末からは、鶴田が谷津を正パートナーにしたことで、輪島は立場的には、本隊のNo.3以下となってしまった。

 この当時、よく報じられたのが、輪島に対するネガティブな風聞だ。「練習をしない」「やる気がない」「他の選手に嫌われている」etc……。そして、天龍、原、ハンセンらの、主にラリアット攻撃による後ろ受け身の多発で、遂には頚椎を損傷し、入院に至った輪島。その入院先の山梨県韮崎市立病院を、訪れる姿があった。それも20人余。当時の全日本プロレスの本隊勢、全員だった。関西での試合を終え、そのままバスで帰京となるところを、名古屋から中央高速に入り、わざわざ山梨を通るルートを通ったのだった。皆、輪島を見舞いたい一心なのだった。その、人好きのする性格の良さは、大相撲を僅か3年で廃業したグレート小鹿を、プロレスラーとして、「小鹿先輩」と呼び続けた逸話を語れば十分だろう。

 だが、彼らが行ってみると、輪島の姿は病床にはなかった。病院に併設させたグラウンドを何周もランニングしていたという。そう、余りこの視点で語られることが少ないが、輪島は無類のトレーニング好きであった。いみじくも、輪島とは学生時代からの旧知であり、輪島が同病院を選ぶきっかけとなった浅沼弘一院長(当時)は語る。

「トレーニングは、彼にとって癖みたいなもの」

「腕立て200回、スクワット500回は準備運動」(輪島)


 プロレス入りを決めて以降、ランニングはもちろん、筋肉トレーニングや、ボクシングのトレーニング(※馬場の意向)も取り入れ、92kgだった体重が3ヶ月で120kgに。あの馬場に、「よくトレーニングするなあ」と言わしめた。食べるのも練習とばかりに、バナナは10本、プロテインは1度に1袋飲み干してしまったことも。だが、前出の浅沼氏は語る。

「ただ、練習を他人に見せたがるタイプではなかった。学生時代から、そう言った意味では損をしてたね」。往時のジャンボ鶴田を思わせるが、これも輪島の美学だったのだろう。

 受けに回ることの多かった天龍との絡み。だが、前田日明がこれに衝撃を受けたのは余りにも有名だ。

「自分たちは、足も相手も保護するレガースを付けて蹴り合ってたのに、天龍さんは、普通に紐のついたリングシューズで輪島さんの額をガンガン蹴って、輪島さんもそれを受けている。こんなプロレスを天龍さんと輪島さんにやられたら、俺たちは立つ瀬がない」

 この前田の焦りが、1987年11月の、長州への顔面蹴撃に繋がったことも知られるところだが、事実、この時期の輪島の額には、天龍のリングシューズの紐の跡がくっきりとついていた。

 同じ力士時代、雲の上の存在だった輪島に、「天龍ちゃん、同じ北陸出身として頑張ろうね」と声をかけられ、大感激したという天龍(※福井県出身)。横綱の受けの強さは知っており、それをリング上で知らしめたかった意図があったことも、ファンには知られるところだろう。

 1988年末、日本デビューから僅か2年2ヶ月で引退した輪島。首、腰、膝、満身創痍で、特に左腕は引退後も真っ直ぐ伸ばすことが出来なかった輪島も、しかし、こう言い残している。

「天龍選手は励ましてくれたし、リング上のことに文句ないですよ。試合をしていても、お互いに“同じ相撲界の……”っていうのがあったんでしょうね」(「アサヒ芸能」2014年11月20日号)

 そして、怪我以外の引退理由を、それから20年以上経って、こんな風に語った。

「(横綱は)それにふさわしい成績を残せなければ土俵を去らなきゃいけない。そういう世界で生きてきたから(プロレスも)もう限界だなと想ったからすっぱりと辞めたんですよ」(「全日本プロレス40年史」ベースボール・マガジン社より)

 それは、頂点に立った者だけが知る美学ではなかったか。

 なお、2つの格闘技で名を成した輪島は、その成功の極意について、「相撲もプロレスも、結局は、型を持った者が強い」と、含蓄ある一言を残している。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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