2018/7/8 11:58

特別リングサイド席が3万円から5千円?大会名案に森高千里?この夏の3連戦に注目!新日本プロレス・日本武道館大会の歴史!

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特別リングサイド席が3万円から5千円?大会名案に森高千里?この夏の3連戦に注目!新日本プロレス・日本武道館大会の歴史!
5.0

大入り袋の中身は、500円(※本文参照)


「今年、日本武道館で(興行を)やったのは、ウチだけだ。他の団体、悔しくないのか!」2012年8月18日、日本武道館のステージ裏での発言。その主は、DDT・高木三四郎社長。確かにこの年、業界で日本武道館を使った団体はDDTだけだった(メインは伝説の、飯伏vsケニー)。客席を半分近く潰していたにもかかわらず、『大入り袋』が出たのは、その嬉しさの表れでもあったろう(観客動員数は主催者発表で10,124人(超満員))。

 その日本武道館大会に、この夏、新日本プロレスが挑戦。15年ぶりの進出であり、しかも『G1 CLIMAX』の公式戦、オカダvs棚橋、飯伏vsケニー、及び、決勝戦を含む3連戦!早くも最終日の決勝戦は、チケット完売状態とされ、熱い激闘が展開されることは間違いなしだ。

 今回は、この、武道館大会への期待、及び人気をかんがみ、新日本プロレスの日本武道館大会の歴史、及び、名勝負について触れてみたい。

WWF(現WWE)世界戦も!(1978年6月&7月、ボブ・バックランドvs猪木)


 先ず、業界で最初の日本武道館大会使用となったのが、1966年12月3日のジャイアント馬場vsフリッツ・フォン・エリック。主催団体は日本プロレスで、この年10月にアントニオ猪木率いる新団体『東京プロレス』が旗揚げしたため、そちらへの牽制を含め、大会場使用に踏み切ったのだった。集まった12,000人の観衆の目は、初登場となる“鉄の爪”エリックの右手に注がれ、試合はスリリングな名勝負に。日本武道館でのプロレス名勝負が幕を開けたのだった。

 さて、新日本が同会場を初使用したのは、1976年2月6日。それまでは東京の大会場としては、両国国技館の前身となる蔵前国技館を使用していたが、初の武道館使用にあたり、組まれたメインがこちら。『格闘技世界一決定戦:アントニオ猪木vsウィレム・ルスカ』。そう、いわゆる異種格闘技戦の第1弾である。柔道の聖地、日本武道館だけに、この格式ある器自体も、両者の対戦を大いに盛り上げたと言えよう。それが証拠に、特別リングサイド席の価格は、何と3万円!現在の価値に換算すると、15万円レベルだった。因みにこの大会の前売りチケットのはけ具合があまりに良かったため、新日本は2月8日からハワイに社員旅行に行っている。なお、注目を表すかのように、テレビ放映は、視聴率34.6%を記録。これは『ワールドプロレスリング』のレギュラー放送では歴代第1位の数字である。

 以降、新日本プロレスは、猪木vsモハメド・アリ、猪木vsチャック・ウェップナーなど、異種格闘技戦を中心に、同会場を使用。また、新日本では珍しいデスマッチも、2度、同会場で行われている。場外をフェンスで囲んだ『フェンスマッチ』(1977年2月10日)と、場外に釘板を敷き詰めた『釘板デスマッチ』(1978年2月8日)だが、カードはそれぞれ猪木vsタイガー・ジェット・シン、猪木vs上田馬之助。当時で言えば変哲なきカードだけに、デスマッチという目新しさで集客の上乗せを計ろうとした狙いもみてとれよう。その後、1980年9月30日の大会を最後に、田園コロシアム、蔵前国技館などの大会場の使用もあり、10年ほどの期間が空いた。この、いわば前期武道館使用期、最後のカードは、猪木vsケン・パテラだった。

小川直也による、坂口征二暴行事件も(1998年6月5日)


 武道館の使用が復活したのは、1990年11月1日。この前年、新日本プロレスの社長に就任した坂口征二による新体制は、週末中心の興行や、グッズショップ『闘魂ショップ』の設立など、新機軸を次々に打ち出し、東京ベイNKホール大会など、新規会場の開拓にも余念がなかった。武道館の再使用もその一環で、カードは、長州vs橋本、武藤&蝶野vs馳&健介、ライガーvsペガサス・キッド(後のワイルド・ペガサス)のIWGP3大タイトルマッチ。タイトル種別を明記せずとも容易にそれがわかるほど、今に通じる豪華カードだが、なかでもタッグ王座戦はこの年でも随一の名勝負となり、“馳健タッグ”が、一気にブレイクすることになったのだった。観衆は14,014人(札止め)この大成功が、再び武道館に進出する契機となったのだった。

 その後は、主に6月を中心に武道館興行を開催。大会名は、『超実力派宣言(+大会数のローマ数字)』とされることが多かった。これは、森高千里のアルバム『非実力派宣言』をもじったものだが、なるほど武道の聖地で雌雄を決するにはピッタリの名称だった。

 名勝負を順に追って行くと、『週刊ゴング』の同年ベストバウト(タッグ部門)を受賞した、武藤&馳vsリック・スタイナー&スコット・ノートン(1991年11月)、その面子だけでド迫力が想起出来るスタイナー・ブラザーズ(リック&スコット)vsベイダー&ビガロ(1992年6月)、語られる時、「あの雪崩式裏フランケンシュタイナーで、絶対に死んだと思った」という言葉が、ファンや関係者の口からほぼ必ず出る、BEST OF THE SUPER Jr.決勝戦、エル・サムライvs金本浩二(1997年6月)。同技を食らったのはサムライ、優勝したのもサムライだった。1996年6月には、全8試合が全てジュニアのタイトルマッチで編成された『ザ・スカイダイビング-J』が開催。ザ・グレート・サスケvs2代目ブラック・タイガー(エディ・ゲレロ)、大谷晋二郎vs桜庭和志などの好カードがラインアップされている。

 高まる武道館需要を示すかのように、1994年2月24日の同大会は『THANKS WRESTLING DAY』として、チケット料金が、通常の半額に!席種名もユニークで、「バトルフィールド(特別リングサイド)5,000円」「スターケード(1階アリーナ)4,000円」「ダブルインパクト(中2階席)3,000円」「ノーザンライト(2階席)2000円」となっていた。もちろん札止めだった。

 また、武道館で引退した名選手たちも。保永昇男は、1998年2月に、引退セレモニー(引退試合は同年4月に後楽園ホールで)。拙著にも書かせて頂いたが、マスコミとの質疑応答で、「最後のお願い」として、「頑張ってる若い選手を、悪く書かないで」と頼んだ姿は、静かな男気に溢れていた。

 1999年2月には、マサ斎藤が、スコット・ノートンを相手に引退試合。マイクを持った挨拶では、「今まで、色々な方に迷惑をかけて来ましたが……今日で全部忘れました!」とバッサリ。場内は一転、大爆笑に包まれたのだった。

中邑にとって思い出の会場は、ドームより武道館?


 2000年代に入り、新日本プロレスは日本武道館を5回使用しているが、名勝負としては、やはり2002年6月に行われた藤田和之vs永田裕志だろう。当時、大向こうを張っていた総合格闘技に負けぬ格闘プロレスを見せ、アントニオ猪木も絶賛。同年のプロレス大賞ベストバウトを受賞した。

 2002年8月29日には、先週の本コラムでも話題にしたが、井上亘vsKENTA、金本vs橋誠、ライガー&田中稔vs金丸&菊池毅など、新日本vsNOAHジュニアの対抗戦も組まれた武道館大会が。藤田和之vs高山善廣をメインに、大物ルーキー、中邑真輔のデビュー戦も組まれたが、観衆発表は9,000人(満員)となかなか苦戦。実はこの前日、国立競技場での格闘技イベント「Dynamite!!」が開催され、91,107人を動員。一部では、その煽りを受けたものとされた。

 結局、この翌年の武道館使用が、00年代では最後のそれに。その2003年6月13日の大会では、セミファイナルで棚橋が、蝶野&天山を相手に、IWGPタッグ王座を初奪取(パートナーは吉江)。メインではIWGP王者、高山善廣に、中邑が初挑戦!数行前にあるデビューから10か月内の大躍進で、期待に違わぬ素質を見せてくれた。この00年代ラストの武道館大会は、振り返れば、その後の中邑、棚橋体制を予兆させる大会だったと言っていいだろう。

 夏の武道館3連戦が、新たな歴史を紡ぎ出すことを期待したい。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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