2018/4/29 11:53

天龍宅に単身乗り込み!「巨大スリッパを作った」はウソ?婚姻届けが他人の手に?! 追悼・馬場元子さん

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天龍宅に単身乗り込み!「巨大スリッパを作った」はウソ?婚姻届けが他人の手に?! 追悼・馬場元子さん
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14日、肝硬変で永眠。


 古い話で恐縮だが、同日デビュー(1960年9月30日)の馬場と猪木が1990年、現役30周年を迎えた時のことだ。週刊ゴング(日本スポーツ社)の人気4コマ漫画「ジャングルリング」(青山英雄)に、こんなネタが掲載された。

(1)記者「猪木さん、30年間で、一番の思い出は?」
(2)猪木「強敵との戦い。その一つ一つの全てが思い出だね」
(3)記者「馬場さん、30年間で、一番の思い出は?」
(4)馬場(顔を赤らめながら)「そりゃ、やっぱり、カーちゃんとの結婚だよな!」。

……ギャグなのだが、馬場ならさもありなんと思わせ、可笑しかった。

 その妻、馬場元子さんが、4月14日、永眠された。夫・馬場の防波堤として往時の全日本プロレスを支えて来た元子さん。「女帝」「尼将軍」などの異名も貰い、さまざまな毀誉褒貶に彩られた人生だったとも思う。今回の当欄は、その元子さんを、ベララン記者や関係者を含む取材から得た秘話ともに、追悼したい。

2000年7月から、2002年9月まで全日本プロレス社長を歴任。


 のっけから言うが、後年、団体の長としての元子さんを取材することもあった筆者だが、例えば、「実は素顔は優しかった」とか、月並みなことを言うつもりもない。ただ、当時の主要団体には、W団体のTさんや、某団体のMさんなど、得てしてマスコミに対して厳しいスタンスの取締役なり広報がおり、元子さんもそういった役柄なのかと思う部分はあったと思う。

「喧嘩もしましたけれど馬場さんが怒るということはほとんどありませんでした。私のほうは喧嘩好きなんですけれどね(笑い)(※原文ママ)」(「週刊女性」2000年3月21日号)、「『馬場さんならどう考えるだろう』って、先ず自分が行動する前に考えるんです。怒るときだけは別なんですけれど(笑)」(「アサヒ芸能」2002年11月14日号)……このような発言が目立つように、ご自分が怒りっぽい人間だと自認していた元子さん。だが、馬場の死後、三沢ら、のちのNOAH勢の離脱を経て、自身が全日本プロレスの社長になると、そうも言ってられなくなったようだ。

 2000年7月、全日本プロレスの社長に就任。前後するが、かつて同団体を離脱した天龍を呼び戻した。本音は「呼び戻したくなかった」という。だが、馬場の仏壇の前で相談。実はその直前に、ある選手を全日本に呼び戻したいと心で語りかけると、異変が、点いていたロウソクがバチバチ音を立てて燃え上がり、次の瞬間、消えたという(!)。ところが、天龍のことを語りかけた時は、特に線香にもろうそくにも異変なし。「馬場さんは許してくれている」と判断。行動に移した。

 そこからが凄い。なんと、会社から地図のFAXを貰い、自分の足で天龍家を訪ね、復帰を懇願したのだ。「天龍さんとは軋轢があったからこそ、私自身が行くのが当然」。元子さんからの願いを、天龍は即時に快諾。その際の天龍の言葉は、元子さんを喜ばせた。「2つ返事出来たのは、元子さんが自ら来てくれたから。他の人なら、絶対にもっと時間がかかってましたよ」

 2002年2月24日の日本武道館大会では、急きょ入ったテレビ中継のため、一部座席を潰すことになったが、代替で用意された席(勿論、従来の席より高額)に文句をつける客が数人おり、1階の出入りスペースで平謝りする元子夫人の姿が。実はジャイアント馬場は、全日本プロレス創立30周年、並びに、自身のデビュー30周年の記念日となる2002年9月30日に、引退する腹づもりだったという(この日付については、複数の関係者の言質が取れている)。その馬場が志半ばで逝去し、元子さんが社長を務めた2年は、まさに武藤体制に移行する過渡期。新たかつ、不慣れな状況が、雨後のタケノコのように現前する日々。苦労もあったろう。この時期の元子さんの変化を口にする関係者は多い。元子さん自身の、こんな発言もある。「昔の元子さんは、どっかに行っちゃったの(中略)排除する人から、いいと思ったことは躊躇せずになんでも受け入れちゃう人になった」(「スポルティーバ」2002年11月号)。改まるが、その背景に、夫の馬場が守った全日本プロレスをなんとか存続させたいという気持ちというか、執念があったのは言うまでもないだろう。

あの、オリックス・バッファローズの名前の元となった“猛牛”、千葉茂がキューピット。


 2人が出会ったのは、1955年の秋。プロ野球・巨人軍入りした馬場が、兵庫・明石キャンプに参加。その際、先輩の大選手・千葉茂の知り合い宅にお邪魔したところ、元子さんを見初めた。その際、「馬場の足のサイズに合う、巨大なスリッパを元子さんが自作して用意しており、その優しさに馬場がハートを射抜かれた」というのが定説になっているが、事実は大分違う。

 先ず、初対面の時にはスリッパは用意されておらず、用意されたのは翌年の、同じ明石キャンプでのこと。考えてみれば会わなければ足のサイズはわからないわけだから納得だが、さらに衝撃の事実が!実はスリッパは、元子さんの自作ではなかったという。「私は3人姉妹の末っ子でして、『3人で作ろう』となったんですね。でも、作業をしたのは姉2人で……。私?私はスリッパに付けるフェルトを切ったくらい……(笑)」

 いずれにせよ、感激した馬場は、帰京してから御礼の手紙を書く。ところが、その手紙の宛名は、他でもない、末っ子の元子さんの名であった。当時、馬場17歳、元子さん15歳。やはり、馬場の方が元子さんを見初めたとして、間違いはないだろう。

ベルトはグッチを好んだ馬場(「G」とあるため)。


 以降、文通を主に交際を重ね、元子さんが旅行代理店のハワイ駐在員になるという幸運も重なり、2人はハワイでデートを重ね、1971年9月にはハワイで結婚。だが、この事実は秘匿され、公表されたのが1982年の7月7日。会見場として、ヒルトンホテルが用意されたが、出席者は馬場1人。「プロレスのことじゃなく、私個人のことに、こんな雨の中、ご足労頂き、申し訳ない」と切り出すが、あとはどんな質問が来ても、顔を真っ赤にしながら、「覚えてない」「忘れた」の繰り返し。挙句の果てに「結婚披露宴は?」と聞くと、「それなら天龍が、9月26日にやるみたいだよ。えっ、俺?俺はそういうのは、天龍に任せるよ」なにせ、日本の役所に婚姻届けを出したのは同年の6月18日らしいのだが、調べるとこの日、馬場はアメリカはテキサスで、ブルーザー・ブロディと戦っていた!(インターヘビー級選手権・結果は引き分け)では、どうしたのかと言えば、日本の知人に婚姻届け提出を頼んだのだという。照れ症にもほどがあるような気がするが……。

 なんにせよ、以降は、それこそ表に立ち、馬場を守り、支えた元子さん。オレンジやシルバーのガウンは、実は元子さんが使わなかった花嫁衣裳を縫い直したもので、しかも馬場は、ガウンによって首に巻くタオルの長さも決めており、そちらも元子さんがオーダー。馬場は靴からファッションを決める癖があり、「今日はこの靴を履きたいから、シャツは何段目の引き出しにある何色を用意して!」と言われ、元子さんが用意。オシャレだった馬場。ところが無類の葉巻好きだけに、葉巻を落とすとすぐ穴が開いてしまう服も。「勿体ない」と感じた元子さんは、特注でジーンズを作らせたことがあった。ところがそれを見た馬場は、「こんなもの作業着じゃないか!」この一言でオジャン。

……そう、気付いただろうか?実は馬場は、結構な亭主関白だったのだ。

「馬場さんは、パンフの色は、季節感を重視してましたね」(元子さん)


 地下の練習場にいる馬場に、コーヒーを持って行くと、「練習中にコーヒーなんて飲むか!気が利かないなあ!」と怒られた。家でお茶くみをおろそかにし、ゲームボーイに興じていると、ゲームボーイを隠されてしまったという。90年代、若者向けに、パンフの表紙を派手にすると、馬場が一喝。「こんな下品な色、使えるか!」それを馬場でなく、一度は発案した自分の意見として周囲に伝えるのも、元子さんの役目だった。「みんなに、馬場さんを嫌わせるわけにいかないでしょう」

 外国人勢の話になり、自然と、彼らがイタズラ好きである話になった。テリー・ファンクがホテルの観葉植物に消火器をかけて白くし、「クリスマス・ツリー!」とやった時も、「ホテルに謝りに行くのは、いつも私でした」(元子さん)。団体の長は馬場である。だが、その馬場に頭を下げさせるわけには行かなかったのだ。

 後年、よく三沢が、全日本を辞めたことに対し、「(元子さんは)何かというと、『馬場さんは喜ばない』と言って、改革を許してくれなかった」と振り返っていたが、その元子さんの言葉自体に、嘘はなかったと思う。文字通り、馬場と添い遂げた人生だった。

 好きな逸話を一つ。海外の試合で馬場がやられていても、元子さんは身じろぎもせず、それを注視していたという。「恐くないの?」と周囲が聞くと、元子さんは一言。「だって馬場さんは強いんだから」 一躍、レスラー間にも、「ミセス・ババ」の名が伝わったという。

 その姿勢はもちろん日本でも変わらず。先輩記者が、1982年の、馬場vsスタン・ハンセンについて聞いた時だ。「あの試合は、馬場さん復活の名勝負になりましたが?」と水を向けると、元子さんはこう答えた。「復活?みんなが引退させたがっていただけでしょ?(笑) 私は全然、心配してなかった。馬場さんは、自信があるからシングルをやるんだと思ったし」そして、明快に分析した。「あのシリーズ、ハンセンが全日本に参戦すると、みんな彼にパワーで対応してた。でも、みんなハンセンにかなわなかった。私、馬場さんとはどうなるのかと思ってワクワクしたの。そしたら馬場さんは、ひたすら体を密着させて腕を攻めたわよね。絶対にハンセンにパワーで対抗しなかった。私、『馬場さん、本当に頭がいいなあ』って……」 「そりゃあもう、1人の馬場ファンの目だったよな」との先輩記者の言葉が甦る。

 なお、女社長として奮戦した元子さんから武藤に全日本の社長の禅譲が発表されたのは、2002年の9月30日。それは、本来なら、馬場が引退した日。この日まで社長を務めた元子さんの表情は、実に晴れやかだった。

 改めて、合掌。天国で馬場さんに、素敵なコーディネートを。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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