2017/8/4 20:15

なぜ日本に墓があるのか? えっ?! 猪木とクリスマス・イブを過ごした?! 日本を愛した神様、カール・ゴッチ特集

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5.0

2007年7月28日に、82歳で死去


 本年7月28日、少々思いがけないニュースがプロレス界を駆け巡った。東京・荒川区の回向院に、プロレスラー、カール・ゴッチの墓が建立され、その納骨式が行われたのだ。出席者は、猪木に前田日明、藤原喜明、木戸修、西村修と、その薫陶を極めて強く受けた男たち。オールドファン向けの話題になってしまうが、ゴッチの功績から言えば、その墓が日本にあってもおかしくはない。だが、一方で、そもそもの疑問がある。それは、なぜゴッチがこのようなまでに、日本と関係が深くなったか、もっと言えば、なぜ、これほどまでに日本に愛着を持ったかということである。

 筆者は残念ながら、ゴッチ氏と酒杯を傾けたことはない。しかし、懇意にしていた人物を、何人か知っている。今回の当欄は、彼らにゴッチ氏自身が語った逸話を元に構成。その、日本への情愛の源を探りたい。

1961年4月に初来日


 お金を渡し、商品を貰って、別れた。日常の売買の光景だった、そこまでは。購入者が、商品につけられた値札に気づくまでは。

「!」

 値札の金額は、彼の渡した金額とは違っていたのである。それも、悪い方に。つまり、男が渡した金額は、商品の金額より多かった。それは単純に、自分の方の手違いだった。

(だけど…)

と彼は思った。売る側も、その場で、それを指摘してくれるべきでなかったか。

……いや、甘い。お金を予定より多く渡されて、嫌になる人間はいないだろう。ましてや、相手が、その場でそれに気づかないとあれば。すると、その話を聞いていた息子が問うた。

「それって、いつの話?」

「もう何年も前の話さ」

「じゃあ、どこでの話?」

 ベルギーの船乗りで、世界中を旅して来た父は、息子の問に答えた。

「日本」


 30年以上経ち、息子はその地に、初上陸を果たす。妥協なきシュートファイターとして。当時の日本マット随一のテクニシャン、吉村道明を人形のように操り、最後は背後から胴に手を回すと、そのままブリッジで3カウントを奪った。そう、それが日本でジャーマン・スープレックスを日本で初公開した男、カール・ゴッチだった。

 説明に文字を割く必要はないだろう。あらゆる格闘技に精通した強者であり、日本で、「ゴッチ教室」を開き、コーチとして、そのストイックなプロ・レスリングを浸透させた。その狷介ぶりは伝説化している。朝10時、1秒たりとも、練習に遅刻したものは、道場に立ち入らせない。立ち入らせれば立ち入らせたで、夏の暑い盛りでも窓を閉め切っての猛練習。なにせ、1本の歯が痛くなると、「歯があるから、痛くなる」と、関係ないその他全部の歯も歯医者に抜かせた偏屈な男だ。余りの苛烈さと考え方の相違から、長州力が数日で逃げ出し、「俺はゴッチ教室の落第生」と自嘲していたのは、有名なエピソードだ。

 一方で、厳酷なトレーニング、そして技術教示は、熱烈な信奉者も生む。1967年の12月24日に電話をかけて来た男も、そんな1人だった。

1972年3月6日に、エース・猪木を倒し、新日本プロレス初陣


「ゴッチさん、ヘルプ・ミー」

 クリスマス・イブだったが、道場に行って、その男に望みどおり猛烈な稽古をつけてやった。大晦日にも電話をかけて来たが、無論、それにも応じた。男は、当時、自ら脱退した日本プロレスに出戻った立場。「道場の隅で、小さくなっていたものさ」と、ゴッチは語る。そこから脱却するには、根の張った強さ、そして、時には「真剣を見せられる」強さが必要だと、男も判断したのだろう。男は、1971年の末にも、電話をかけて来た。

「新団体を作りたい。シリアス・レスリングをする団体にする」

 男とゴッチは、旗揚げ戦で一騎打ちをし、団体の方向性を示した。そう、アントニオ猪木である。猪木vsゴッチ。これが、新日本プロレスのスタートだった。

 以降も、“象徴”として、新日本プロレス、そしてそこから派生するU系団体、そして、無我にまで影響を与え続けたゴッチ。

「お客が何を欲しがっているか…。常に本物を欲しがってるんだ。ウソをつくな。ウソは必ず自分に帰って来る」

「プロ・レスリングとは、常に自分との戦い。ステロイドの誘惑に勝てないような奴が、どうして自分との戦いに勝てる訳があるか」

 残された、哲学とも言える数々の言辞。日本人達は、周知の通り、彼をこう呼んだ。

「プロレスの神様」。

 そしてもう一つ。

「無冠の帝王」と。

猪木vsゴッチの戦績は、ゴッチの3勝2敗


「私が出会った中で、もっとも手強い相手だった」と、ルー・テーズに言わしめたゴッチ。NWA王者時代のテーズには、9回挑戦し、9回とも引き分け。間違いなく、実力は世界でもトップレベルだった筈だ。しかし、主要タイトル獲得には、とうとう最後まで至らなかった。「派手さがない」「地味」、そして、「客が呼べない」という数々のプロモーターからの一定の評価。「妥協なきシューター」という高評は裏を返されれば、かような風評を呼ぶ。「独善的なファイトしか出来ぬ、プロレスを理解していない男」…。

 レスラーとしては、まだまだ輝ける40代前半、一流のシュート・レスラーのゴッチは、ハワイの清掃局に職を得た。尋常じゃなく鍛え上げられた肉体で、だが、日夜、モップを持ち、街やトイレを綺麗にする日々。

 こんな、印象的な言葉を残している。

「私が追求するレスリングは、今のプロレスの試合では、受け入れられまい」……。

 そして、もう一つ、これに続いて、紡いだ言葉があった。

2006年8月、無我の旗揚げで最後のメッセージ


「日本。そうだ、神戸という港町だったな、あれは。で、それからしばらくのことだ」

 冒頭の、ゴッチの父の話にも、続きがあった。

「父さんを停泊中の船まで、尋ねて来た人がいた」

「…?」

「あの時、お金を多めに渡した、日本人の商人だったよ」

「!」

「多めに貰った分を返したくて…ずっと父さんを探し回ってくれたんだな」

 父はこんな風に、息子に告げた。

「つまり、日本ってのは、それほど無欲で礼儀正しい、素晴らしいところさ」


「私が追求するレスリングは、今のプロレスの試合では、受け入れられまい。しかし」

 ゴッチは自分のプロレス人生を、こう結論づけた。

「私は、もともと富も名声も追う気はないから、別に心配は要らない(笑)」

 新日本どころか、国際、そして、全日本プロレスの選手にまで、教えを請うものが現れれば、熱心に指導し続けたゴッチ。「私が彼らを求めたわけじゃないが…彼らが私を求めてくれたからね」と、嬉しそうだったゴッチ。

 最後の日本へのメッセージとなった無我の旗揚げ挨拶で残した言葉は、足腰の不調で、来日出来ないことを詫びた丁重な謝辞、そして、

「私には半分、日本人の血が流れていると思っています」

というものだった。

この記事を書いたライター: 瑞 佐富郎

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