2017/6/12 12:03

1955年の東京女子プロレスも熱かった 小畑千代から語る戦後史【多重ロマンチック的ぼくらのプロレス】

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1955年の東京女子プロレスも熱かった 小畑千代から語る戦後史【多重ロマンチック的ぼくらのプロレス】
5.0

金メダリストを次々輩出する女子レスリング。卓球少女。なでしこジャパン。エトセトラ。女子アスリートの活躍が目立つ時代。日本にその先鞭をつけた女子スポーツ。それは女子プロレスだった。

女子プロレスラー・小畑千代。日本に力道山がまだいた時代、女子プロレスというジャンルをけん引した1936年3月5日生まれ、御年81歳のレジェンドだ。ちなみに40年ほど試合をしていないが引退試合をしていないため、まだ現役だ。

どれくらいレジェンドか。女子のプロアスリートという概念が薄いどころか、1964年の東京オリンピック・女子バレーボール代表や女子体操の活躍で、ようやく女子アスリートの概念が芽吹き始めた1968年11月6日。現在の両国国技館の前身となる蔵前国技館をフルハウス。対戦相手はファビュラス・ムーラ。のちにWWEでおばあちゃんレスラーとして有名になるあのムーラだ。当時は40代。観衆6500人。地上波中継の視聴率は24.4%。東京12チャンネル(現在のテレビ東京)当時の最高視聴率を記録。開局50周年記念番組でも紹介されたという。翌日には東京スポーツ1面で報道。しかしその歴史を知るものは数少ない。

力道山と同じ時代に起きた現象なのに、得てして語られることのない歴史。主流のものは過去の歴史も紐解かれるが、そこから外れたものは取り上げられることがなくなっていく。力道山から始まる男子プロレスの系譜におらず、その後旗揚げされるビューティーペアはクラッシュギャルズといった全日本女子プロレスの流れからも傍流扱いとなる小畑千代の物語はほとんど紹介されることがなかったのだ。

だが、小畑が体験した女子プロレス黎明期の証言はとても面白い。ストリップ劇場から始まる歴史はまさに偏見と闘う歴史。それは女性はつつましくあればいいとされていた「女性像」を覆すべく動いた戦いの歴史でもあったからだ。

かわいがられるだけの女、幼稚で媚びる女に異議申し立てをして、のびやかに、それまでの秩序を蹴破った。戦後から復興し、高度経済成長のさなか、時代も「闘う女」を受け入れるだけのバイタリティがあった、と言えないか。
(中略)小畑たちは「女性が自立して働く」ということの意味からも特筆すべき存在だ。(秋山訓子著「女子プロレスラー小畑千代――闘う女の戦後史」岩波書店刊、216頁)


男子プロレスと比べ、小畑の現役最前線の時の記録は新聞をはじめとする文献にほとんど残っておらず、当時を知る人も少なってきていることから少ない証言と証拠品を積み重ね調べ上げ、「東京女子プロレス」の結成、フリーランス(小畑曰くインディペンデント)期間、国際プロレスへの合流。その後の女子プロレスの話までを総括する秘話満載の語られることの少なかった戦後の女子プロレス物語。秋山訓子著、「女子プロレスラー小畑千代――闘う女の戦後史」、歴史好きにもプロレス好きにも是非お勧めです。

ちなみにこの本、いままでのプロレス関連書物では「東洋女子プロレス協会」とされてきた東洋興業(当時、浅草フランス座を経営)が旗揚げした女子プロレス団体を、一貫して「東京女子プロレス」と表記。コスチュームに「tokyo」の文字があることなどにより導き出された答えなのでしょう。さらっと書かれてるけれど、なにげに歴史をひっくり返す大事実!

かつては神取忍に対戦表明したり、魔界女子倶楽部総裁になったりとまだまだ血気盛んな“小畑選手”。2012年に旗揚げされたほうの東京女子プロレスにも、何らかの形でからんでほしいなと思ったり。

この記事を書いたライター: 漁師JJ

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