2016/2/22 12:23
"いいヤツ"ジョー・ディートンの時代【ぼくらのプロレス物語】
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「ディートン!ところでお前最近、毎シリーズ日本に来てるじゃないか。 お前もしかして俺に会いたくて来てるのか? そんなに俺が好きなのか? それとも、俺があんまり好きじゃないか、好きか嫌いか、どっちか言ってみなさい」
1993年2月全日本プロレス日本武道館大会"マイクの鬼"ラッシャー木村がマイクで彼に日本語で語りかけた。
彼の名はジョー・ディートン。
1980年後半から1990年前半にかけて全日本プロレスの常連外国人レスラーとして来日した男。
ディートンは木村の日本語を何故か理解していたのか、苦笑いを浮かべて聞いていた。
そして、木村のマイクを受けて、場内はディートンのアンサーを求める。
「ディートン」コールの中で、彼は意を決したようにマイクを握った。
「キムラサン…アイシテマス」
場内は大歓声、突然のラブコールを受けた木村は困惑。
ディートンは得意げに両手を上げて歓声に応えた。
1957年アメリカ・ノースカロライナ州に生まれたジョー・ディートンは兄ホス・ディートン共に名プロレスラーのネルソン・ロイヤルのジムに入り、1978年にプロデビューを果たす。
ホスとのディートン兄弟でNWAにて活躍。
ちなみに1985年にハワイ・ホノルルで結成されたアントニオ猪木&アンドレ・ザ・ジャイアントの夢のタッグチームの対戦相手を務めたのがディートン兄弟だった。
ディートン兄弟はジョージア地区では「ニュー・テキサス・アウトローズ」を名乗っていたという。
テキサス・アウトローズといえば、"狂犬"ディック・マードックと"アメリカン・ドリーム"ダスティ・ローデスの伝説のタッグチームだ。
1987年8月に全日本プロレスに初来日を果たしたディートン。
兄のホスとともに1988年10月にも参戦した。
だが、全日本が重宝したのは弟のジョー・ディートン。
彼は元々は受けもできて、渋い職人レスラーだった。
中南部の若鷲と呼ばれたディートンが"いいヤツ"と呼ばれるきっかけとなったのは日本テレビ系で放送された「全日本プロレス中継」の賛否を呼んだ人気コーナー「プロレスニュース」だった。
このコーナーで福沢朗アナウンサーはこのように発言したのだ。
「私はジョー・ディートン選手はどう見てもいいヤツだと思うのですが、皆さん如何でしょうか?」
これがきっかけでディートンはプロレスファンから"いいヤツ"と認識されるようになった。
「プロレスニュース」の中でもディートンのネタは鉄板となる。
特に福沢アナが選手達のコメントを情緒豊かに、時には空想も交えながら読み上げる場面。
スタン・ハンセンのコメントの締めには何故かディートンの話が飛び出した。
「ディートンはいいヤツだから…」
いつしかディートンは会場人気でも外国人レスラーでトップクラスとなっていった。
何故か応援したくなるのがジョー・ディートンの人徳だった。
1991年7月にはビリー・ブラックとのコンビで小橋健太&ジョニー・エースを破り、アジアタッグ王座を獲得した試合では、ファンは人気の若手チームの小橋&エースではなく、ディートン組に多くの声援を送った。
来日を重ねるにつれて、ディートンは片言の日本語でのマイクパフォーマンスをするようになった。
このパフォーマンスも"いいヤツ"というリアリティーに拍車をかけた。
1993年には永源遥、渕正信、泉田純(当時は泉田竜角)といった素敵な男達が構成員となっている悪役商会のメンバーになった。
渕以外のメンバーが着用していたピンクのタイツをディートンも着用するようになる。
ここまで日本に、全日本に染まろうとするディートンの努力には感服するしかなかった。
ディートンは1996年まで全日本に参戦した。
その後、天龍源一郎率いるWARにも参戦した。
WARでもディートンの片言の日本語でのマイクパフォーマンスは健在だった。
ディートンは2005年頃までアメリカのインディー団体に上がっていたという。
"いいヤツ"ジョー・ディートンが来日していた時代。
それは、現在の日本プロレス界とは異なり、多くの外国人レスラーが毎シリーズ、キラ星のように参戦していた"外国人レスラー黄金期"だったのかもしれない。
コメント
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馬場さんがいてファミ悪対決があって、百田のツバがあって木村さんのマイクがあって、
鶴田がいてハンセンがいて超世代軍があって。
ディートンはいいやつでした。
一番いい時代ですね。
(2016/2/24 15:18)
ツバは永源な
(2017/9/15 16:43)